葛飾区柴又にあるプロテスタント教会です。日本ホーリネス教団という団体に属しています。
メインメニュー

主の道に歩む者の幸い

主の道に歩む者の幸い 詩篇119:1-8

おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。
主のもろもろのあかしを守り 心をつくして主を尋ね求め、
また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。
あなたはさとしを命じて、ねんごろに守らせられます。
どうかわたしの道を堅くして、あなたの定めを守らせてください。
あなたのもろもろの戒めに目をとめる時、恥じることはありません。
わたしは、あなたの正しいおきてを学ぶとき、正しい心をもってあなたに感謝します。
わたしはあなたの定めを守ります。わたしを全くお捨てにならないでください。

 この詩篇119:1-8には「さいわい」という言葉を2回繰り返しながら、幸いな者とはどんな人のことなのかを明らかにしています。それは「主のおきてに歩む者」であり、「主の道に歩む者」であるというのです。ここにこそ私たちの真の祝福の道があると言うのです。
 ここで「主のおきて」という言葉を聞く時に、どんなことを考えるでしょうか。堅苦しい、窮屈だ、自由がない、といったことでしょうか。確かにそのようなニュアンスを感じると言うことがないわけでもないのです。規則と言うものはある枠組みや性格を作るのです。学校の校則などはその一つです。校則によって学校のカラーが作り上げられます。しかしそれはなかなか守られないのも現実です。ある人は、規則とは破るためにある、と言いました。
 しかし、聖書はそのことを良しとはしておりません。人間の定める決め事には時に間違いもあるし、時代と共に変っていかなくてはならない面もあるのですが、神が定められた戒めには間違いはない、という確信の元に示されておるのです。この「さいわい」と訳された言葉は「まっすぐ歩む」という意味を持っています。脇道にそれないことです。それは神の御心、目標に向かってまっすぐ歩むと言うことであります。神が定められた道、そこを歩んでまいりますときに、幸いと言う目的地にたどり着くのである、というのです。つまり、神は私たちを窮屈なところに閉じ込めるために定めを設けられたのではなく、私たちに幸いを、恵みを、祝福を与えられるためにこれを定められたと言うことなのです。
 ただ、よくよく考えますと、私たち人間はこのことを決して喜ばないのです。どのようにしたら、このことに従わずにいられるか、ということを考えるのです。それは人間の奥底にある、まさにアダム以来累々と受け継いでまいりました神の言葉に従おうとしない罪、その罪が、神の言葉をないがしろにし、自分勝手に生きることを選ぶのです。ですから、この詩人は4節で「どうかわたしの道を堅くして、あなたの定めを守らせてください」と祈るのです。そのように祈らざるを得ない自らをそこに見出しているのです。私たちはどうなのでしょうか。私たちは神の御心に生きることを喜びとしているのでしょうか。この祈りは、私たちの祈りとされる必要があるのではないでしょうか。
 この神の祝福に満ちた歩みをするために、私たちはどんな生活を具体的にしていったらよいのでしょうか。このところには「主のおきてに歩む」「主の道に歩む」「あなたの正しいおきてを学ぶ」などとあります。それは神様の御心を正しく知ることです。神様が私たちに何を願われているか、それを聖書を通して、あるいは教会の礼拝に行って、正しく知ることが必要なのです。
 今ひとつは「正しい心をもって」と出てきます。私たちの心がねじ曲がっていたならば、神様の言葉は正しく受け取ることが出来ません。ですから、心が真っ直ぐに正されることが必要なのです。しかしそんなことが私たちに出来るのでしょうか。聖書は私たちの頑張りでは出来ないと言っています。真っ直ぐにして下さるのは神様なのです。その事のために主イエス・キリストが十字架にかかられたのです。このお方を信じる時、私たちの心は真っ直ぐにされ、神の御心を喜んで聞くことが出来、祝福された道を歩む者とされるのです。

Posted at 2007年04月30日 02時29分09秒

 
トラックバック一覧