葛飾区柴又にあるプロテスタント教会です。日本ホーリネス教団という団体に属しています。
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神の豊かな恵み

神の豊かな恵み エペソ1:3-14  

「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」。(エペソ1:7)

 ここには「ほむべきかな」(3)「ほめたたえるためである」(6)「ほめたたえる者となるためである」(12)「ほめたたえるに至るためである」(14)と出てまいります。そこには神の豊かな恵みの過去・現在・未来という長いスタンスが開示されています。
 この冒頭の「ほむべきかな」と言う言葉は「感謝すべきかな」とも訳せる言葉です。それはまた「礼拝する」とも訳せるのです。
 著者パウロはここで、さあ神を賛美しよう、神を礼拝しよう、と招いているのです。その神とは、エペソにあるアルテミス神殿の神では当然ない、イエス・キリストの父なる神なのです。このイエス・キリストによって明らかに示されたところの神を礼拝・賛美しよう、と言っている。何故でしょうか?
 第1には、神は天上の凡ゆる霊的祝福をもって私たちを祝福していて下さるからです。第2は、神は私たちを御前にきよく傷のない者となるようにして下さるからです。第3に、神は天地の造られる前から――私たちが考えもしなかった前から――私たちを選んで下さったからです。第4に、神は私たちに神の子となる身分を授けて下さっているからです。これは私たちにとっては「栄光ある恵み」(6)なのです。
 この恵みの発端(発露)は「愛」なのです。神の愛は、まず私たちに霊的祝福を豊かに注ごうとされました。そして清められた人格・品性を与え、神の御前に出られる者としようと計画されたのです。その結果としての神の子の身分なのです。まさしく「私たちが神の子と呼ばれるためにはどんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」(1ヨハネ3:1)の言葉に示されている通りなのです。
 この神の愛は、自発的な愛なのです。「御旨のよしとするところに従い」(5)とある通りです。これは「その心の喜びに従いて」という意味があります。この事が神ご自身にとって大いなる喜びである、と言う事なのです。約束だから、そういっちゃったから、仕方ないから、と言う事ではなく、私たちを神の子とする事が神の喜びなのです。イエス・キリストは失われた一匹の羊の譬を通して、地上で一人の人が悔い改めならば、大いなる喜びが天にある(ルカ15:)と言われています。
 神は私たちに祝福を与えるために、喜びを持ちながら計画されたのです。ですから私たちは喜び賛美し、礼拝しなければならないと言うのです。

 では、この様な恵みを備えられた私たちは一体どの様な者なのでしょうか。2:1には「罪過と罪とによって死んでいた者」とあります。それは神が備えて下さった幸いな道、喜びの道を歩む事が出来ず、またその道を見失い、さまよっている状態を現しています。何故その様になってしまったかというと、神に敵対している悪しき霊に支配されているからです。神を見失うと、生きているが死んでいるのです。この様な生き方から、本来歩むべき神の道を歩む事が出来るように、神はキリストにあって豊かな恵みを御用意下さったのです。それはイエス・キリストの十字架の血潮の贖いによる罪過の赦しの恵みなのです。これは単に犯してしまった罪が赦されるだけではなく、その様な罪に引き込む誤った道から正しい道に導き返される事を意味しています。これが神の恵みに生きる出発点なのです。
 神は信じ従う者に、「凡ゆる知恵と悟りとを私たちに賜った」(8)のです。それによって神の御旨の奥義を悟る事が出来るような者にされました。ここには「時満ちるに及んで実現される御計画」(10)「キリストに望みをおいている・・・」(12)とあります。これは終末における私たちの立場を明らかにしています。それはまた、神の前にきよく傷のない者として立つ恵み(4)なのです。
 この事が分かってくるとき、私たちは日々の中で更に聖書のみ言葉を悟る者となり、その道を歩む者となるのです。つまり、聖書を通して神の真理のみ言葉を聞き、それを悟り、それによって生かされる事を喜ぶ人生が与えられるのです。この故に、私たちは不平不満の生き方から、神の栄光をほめ称える者となるのです。まさに、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する生き方がはじまるのです。
 この恵みは私たちの頑張りによって保たれていくようなものではありません。「聖霊の証印」(13)とありますように、神が聖霊を通して確約し、保証し、守ってくださる恵みなのです。この豊かな保証の故に、神をほめたたえて歩む生き方が備えられるのです。

Posted at 2007年06月11日 21時48分03秒

 
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