葛飾区柴又にあるプロテスタント教会です。日本ホーリネス教団という団体に属しています。
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創立70周年記念チャペルコンサート(6/26)のお知らせ

創立70周年記念チャペルコンサート

 

Posted at 2022年05月11日 16時08分32秒  /  コメント( 0 )

2022年4月−2022年5月の予定

2022年4月 3日 主日礼拝 am9:00,10:15

2022年4月10日 棕櫚の主日礼拝 am9:00,10:15

2022年4月17日 イースター主日聖餐式礼拝 am9:00,10:15

2022年4月24日 主日礼拝 am9:00,10:15

2022年5月 1日 主日礼拝 am9:00,10:15

2022年5月 8日 主日礼拝 am9:00,10:15

2022年5月15日 主日礼拝 am9:00,10:15

2022年5月22日 主日礼拝 am9:00,am10:15

2022年5月29日 主日礼拝 am9:00,am10:15
             *第2礼拝後に「ハンナの集い」をいたします。

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◎書道会 *2021年11月から再開しています。
  2022年 4月 7、14、28日
  2022年 5月12、19、26日(木) PM1:30
        ☆5/19は休みになるかもしれません。


◎市川家庭集会
  *再開の時はまだ決まっていません。
 

Posted at 2022年03月29日 18時33分55秒

確かな希望に生きる(ローマ12:12)

確かな希望に生きる(ローマ12:12)

「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」。

 この御言葉の最初に「望みを抱いて」とあります。この望みは終末を待つ姿である、と言われています。この世界の最後が主イエスの再臨によってもたらされる、それが終末なのですが、その時を待ち望む、それはクリスチャンが持っている信仰の姿であるわけです。
 今から約2000年ほど前に、神のひとり子イエス・キリストが私たちの世界においでくださいました。その時をクリスマスとしてお祝いしています。このイエス・キリストは私たちの救いのために十字架にかかられて死なれ、3日目に死を打ち破って蘇られました。それがイースターです。そして、元々おられた天の御国に帰られ、父なる神の右につかれたのです。このイエス・キリストがもう一度私たちの世界においでになられ、この世界を造り直されるのです。それを再臨と言います。クリスチャンはこのイエス・キリストの再臨を待ち望んでいると言えます。
 しかし、ここで取り上げられている「望み」とは、そのようなことに限定されるものではありません。続くようにして「患難に耐え」とありますが、それに先立つようにして「望みを抱いて喜び」ということが述べられているわけですから、ここで語っていることは、望みからもたらされる喜び、それが患難に耐えさせる力となる、ということなのです。
 更に「望みを抱いて喜ぶ」とは「与えられている望みによって喜ぶ」と言い換えることもできます。とすると、私たちはどのような望みを持っているのでしょうか。
 キリスト教会の最初の世界宣教師となったパウロという人が、多くの手紙を書き残し、そのうちの13通が新約聖書の中に残されています。その中にピリピ人への手紙という手紙があります。その手紙を読みますと「喜ぶ」という言葉がたくさん出てくるのであります。
 そしてその締めくくりのようにして4:4で「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と語っているのです。この「繰り返して言うが」を「しつこいと思うだろうが」と読み替えてわたしは読むことがあります。パウロはそれほどの思いでピリピの教会の人たちが喜びに生きてほしい、と願ったのだと思わされたのです。
 このピリピ人への手紙が書かれたとき、パウロはローマの獄に捕らわれていました。それは罪を犯したからではなく、パウロを憎んでいる人たちが、謀りごとによってパウロを捕らえ、リンチにかけようとしていたのをローマの千卒長に助けられ、ついにはパウロはローマまで護送されてきたのです。
 私たちであったらどのような思いになるでしょうか。パウロはそのような中で「喜びなさい」と語ったのです。そこにはパウロ自身の中に喜びがあったということができます。ですから、「喜びなさい」と語ることができたのです。そしてパウロの喜びは、望みにかかっていたのです。その望みは神様から与えられたものでした。
 使徒行伝23:11に出てきますが、パウロはローマで主イエスを証詞することを神様から託されていたのです。そのことが彼の望みであり、そのために今ローマの獄中にあったのです。ですから、今ある苦しみもパウロにとっては喜びであったのです。それは主から託されたことが実現するときが確実に近づいていたからです。それがパウロの望みであり、喜びでもあったのです。パウロには、この今ある苦しみを通して主イエスが栄光を表してくださる、との確信であったのです。

 私たちも、パウロとは異なるとは思いますが、日々の生活の中で困難や苦しみといったものがないわけではないのです。そのような中で「希望をもって喜ぶ」とは、今の生活が苦しくても、喜んで生きることを意味しています。
 ですから、続いて「患難に耐え」と出てきます。この「耐え」という言葉は、「とどまり続ける」という意味があります。つまり、苦しみの中にあっても、神の慈しみを信じる信仰から離れ去らないということであるのです。その根底には、十字架によってあらわされた神の愛が必ず実現する、という信仰があるのです。その神の愛の実現とは何でしょうか。パウロはこのように語っております。1コリント10:13です。
   あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は
   真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせ
   ることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるよ
   うに、のがれる道も備えて下さるのである。
 そこには、試練は誰にでもあるということ、人間の真実は時にあてにはならないけれども、神の真実は決して裏切らないということ、そして私たちを愛していてくださる神は、必ず逃れの道も用意していてくださる、ということです。この神の真実にこそ、神の愛が実現するのだと信じることなのです。そこに望みによる忍耐が生まれてくるのであります。

 最後に、「常に祈りなさい」とあります。ある訳では「祈りに固執せよ」とありました。
 パウロはコロサイ4:2で「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」と語っています。他の箇所にもあるのですが、パウロは絶えず祈ることをクリスチャンに求めています。
 しかし、「祈り」は必ずしも「願い求める」ことだけを意味してはいません。ですから、「祈りに固執する」ということは、自分の願いを駄々っ子のようになにがなんでもかなえられるように求め続けることではないのです。主イエスがゲッセマネの園において、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と祈られた祈りに至ることなのです。

 日々の歩みにおいて、私たちはどんなことに直面するのでしょうか。何も問題が起こらないことを願うのは当然であります。しかし、思うようにいかない事もあり得るのです。そのことを恐れて思い煩うのではなく、私たちに愛のまなざしを注いでくださっている神様に望みを置いて、この神様の真実に信頼して、神様が必ず道を切り開いてくださることを信じていきたいのです。そして、「御心をなしたまえ」との祈りにいつも立ち続けていきたいのです。そして、マルコ16:20に「主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」とありますように、主イエスの栄光を拝させていただきたいものであります。
 

Posted at 2022年02月02日 18時25分29秒

主のみ守りの中に生きる(詩篇121:1-8)

主のみ守りの中に生きる(詩篇121:1-8)

 この121篇は、見出しにもありますように、エルサレムの神殿へ礼拝のために、それはイスラエルの大きな祭りに参加するために旅立って行く人々を、慰め励ますために書かれたものといわれています。その旅路は決して平坦なものではありませんでした。イスラエルの地は起伏の激しい地形になっております。そこを旅して行くのであります。主イエスが「よきサマリヤ人」のたとえで語られておりますが、強盗なども出ることもあったようであります。何が起こるのか分らないのです。そのような中をエルサレムを目指して旅立つのです。
 この事は私たちの人生にも相通ずるものがあります。昨年のことを思い起こしても、思いがけないことが起こったのであります。新しく始まったこの年も、何が起こるのかわからないのです。ましてや私たちの人生、何が起こるのか見当もつきません。思いもかけないことも起こるのであります。悲しみの谷間を通らなければならないこともあるでしょう。そしてこの旅路は、私たちの最終目的地である永遠の神の都、天国を目指す旅でもあるのです。
 では、私たちにとっての永遠の神の都への旅路、そこにある困難を予想して、その旅を断念すべきでしょうか。そうではありません。私たちは見るべきお方を見ているがゆえに、確信を持って天国への道を踏みしめていくことが出来るのであります。
 この「イスラエル」とは、神が選ばれた民のことを示しております。それは新約的には教会の群であります。この教会の群を守り導かれるお方は神であるのです。この神は天地を造られたお方であります。御言葉をもってそれらを造られ、すべてを整えた後に、私たち人間を造られたお方なのであります。
 1節に「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか」とあります。その言葉に対して「わたしの助けは天地創造のまことの神からもたらされる」との信仰の言葉が告げられているのであります。これは非常に重要なことであります。
 ある聖書の訳では、2節の「わが助けは」というところを、「あなたの助けは」と訳しておりました。これは聖書の写本上の違いによるのでありますが、その立場を取る人たちは、1節はこれから旅立つ人の別れの言葉であり、2節からは見送る人たちの励ましと慰めの言葉であるというのです。不安を持ちながら、わたしの助けはどこから来るのだろうか、と語る人に、あなたの助けは天地創造の神から来るんですよ、と言っているわけです。この解釈は恵みの言葉として響いてまいります。それは私たち神を信じる者こそが、不安や恐れを持つ人に、聖書の神こそがあなたの助けであり慰めであり望みでありますよ、と言って差し上げられるということであります。

 人間<が>作った神は、人間のもつ能力以上のことは出来ません。たとえ出来たとしてもそこには限りがあります。しかし、人間<を>造った神様は、この世界、宇宙を造られた御方なのであります。無から有を生み出すことの出来る御方であります。
 パウロはローマ人への手紙において、アブラハムを例に挙げながら、神に受け入れられる信仰とは、無から有を生ぜしめる神を信じぬくことだと語るのであります。この神が私たちのために目を覚まして見守っていてくださるのであります。まどろむことも眠ることもないのであります。四六時中、いつも、目を覚まして、見守っていてくださるというのであります。

 一瞬の眠り、まさにそれがまどろみであろうかと思います。それがどんなに大変なことになるかということを私たちは知っているのであります。わたしは20代半ばのころ、一度だけ居眠り運転をしてしまった経験があります。大事故にならずに済みましたが、今思い返しても背筋が凍る思いがいたします。ほんの一瞬の眠りが大惨事を起こすことがあるわけです。
 もし、私たちを守る神も、眠ることやまどろむことがあったとしたならば、その間は、私たちはまったく無防備になってしまうのであります。しかし、聖書が私たちに告げる神は、私たちから目を一瞬たりとも離される方ではないのです。それは何か失敗を犯しはしまいかと見張っておられるのではなく、私たちをあらゆる危険から守るために見守っておられるお方であるということなのです。そこには私たちへの愛のまなざしによる確かな守りがあることを示しています。4節の繰り返しは、まさしく、このことを念を押すようにして語られた言葉であります。

 日本には面白い信仰を見ることができます。暦では10月を「神無月(かんなづき)」と言います。「神がいない月」と書きます。ところが出雲では10月を「神在月」と呼ぶのです。全国津々浦々にいる神様がこの出雲に集まるのだそうです。出雲以外は神様がいなくなるのです。眠ったりまどろんだりするのではないのです。いなくなってしまうのです。これは大変なことですよね。しかし、聖書の神はそのようなことはありませんし、そればかりではなく、眠ることもまどろむこともなさらないお方なのです。

 ここに「見よ」とありますが、この言葉には2つの意味があると思うのです。ひとつは、「神様にじっと目を注ぎなさい。この神様がどのようなお方かを良く考えなさい」ということです。その意味では私たちは天地創造の神、私たちを守り導いてくださる神、私たちを宝物のように思っていてくださる神、この神をもっと深く知り、もっと信じる者とされたいのです。そこにこそ、平安の道が開かれていくのです。そして、その神を知るには、聖書に親しむことから始まるのであります。
 今一つは、「神様の今までのなさりようを見つめる」ということです。言葉を変えますならば、神の導きの歴史を振り返るということであります。第一には、聖書を通してそのことが解るのです。聖書は信仰の書であると共に、神の出来事の歴史でもあります。旧約聖書は神の選びの民イスラエルを通してそのことが明らかにされています。天地創造の神がどのように私たちに関わろうとしておられるかが良くわかるのであります。そして新約聖書は神の選びの教会を通して現された神の出来事、主イエスによる救いの出来事と歴史が記されているわけであります。
 第二に、「私たちの人生を通して」であります。私たちの今までの歩みの中に、神はどのように働いてくださったでしょうか。いま私たちがこのように礼拝をささげていますことは、当然のことなのでしょうか。主イエスの救いに与ってからの歩みは、全く欠けのないものであったのでしょうか。「たとえ私たちは不真実であっても、彼(神)は常に真実である」(2テモテ2:13)とあります。たとえ心の中を見透かされたとしても、自分には何の曇りもない真実な信仰の歩みをしてきた、と言い切ることができるでしょうか。自分の人生の節々で、自分の歩みを振り返り、そこに神の恵みの確かさを見出すことはとても大きな意味があると思うのであります。
 この一年の歩みの中においても、事あるごとに神の助けの御手を、そのまなざしを見出す者とさせていただきたいのです。それは、旧約聖書の預言者サムエルが語りますように「神が今に至るまで私たちを助けられた」といえる信仰告白なのであります。
 

Posted at 2022年02月02日 18時23分00秒

☆祈ります☆

新型コロナウィルスの一日も早い終息を願い、

切にお祈りいたします。

また感染された方々のため、主の速やかな癒しを

切にお祈りいたします。


現在、有志によって午前と午後の11:00に、このことのために祈りの時を持っています。
 

Posted at 2022年02月02日 17時35分55秒  /  コメント( 0 )