社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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(2010年4月)          「あしたは、もっとうまくやれるかもしれない」

 
 保育園で仕事をしていてよかったなあと思うのは、「絵本と仕事が直結」していることです。ときどき「保育士はいいですね、こどもと遊ぶのが仕事でしょ」と言われますが、それはあまり保育園をご存知ない方で、実際には保育は手も口も足も目も(ベテランになると背中にも大きな目玉がつきます)、そして頭をたくさん使う仕事です。わたしみたいな園長に「態度は落ち着いて、頭はフル回転で動かして!」とハッパをかけられる大変な仕事であります。そんな緊張の連続の日々だからこそ、絵本は保育士にとって仕事のツールをこえた「心のオアシス」的存在なのでしょう。

 何もかもうまくいかない・・と感じるとき、読むと笑いだしてしまい、わたしもおかみさんみたいにやらなくちゃ、と自分をリセットできるのがワンダ・ガアグの「すんだことはすんだこと」(福音館書店)です。小さな版の白黒の挿絵の本ですが、奇想天外なストーリーで特に牛の表情が・・(もう笑う)。じぶんの仕事よりおかみさんの仕事のほうがずっとらくそうに思えたおやじさんが、おかみさんにぶつぶつ愚痴をこぼします。すると、おかみさんは「あしたからしごとをとりかえっこしてみようじゃないの」と提案。翌日うちに残ったおやじさんの身に起こったのはとんでもない災難ばかり。しくじるたびに「しょうがない、すんだことはすんだことだ」と肩をすくめて、めげないおやじさんですが、最後はすっかりしょげて反省します。そのときのおかみさんの言葉がいいのです。「はじめは、ちょっとたいへんだけど、・・でもあしたは、あんた、もっとうまくやれるかもしれないよ」。わたしだったら鬼の首をとったみたいに「ほーら、だからいったでしょ!」と言いますね。このおかみさん、ただものじゃない。ふさいでいた気持ちが明るくなります。

 トロル・フランブラの8人の醜い男の子の名前ご存知ですか?
「おおかわいいこ」「まあかわいいこ」「なんてかわいいこ」「とってもかわいいこ」
「すごくかわいいこ」「ほんとにかわいいこ」「めちゃかわいいこ」「なんともかわいいこ」。
絵本は子育ての原点を教えてくれます。


Posted at 2010年04月09日 11時20分06秒  /  コメント( 0 )

(2010年3月)                  こんな時代だからこそ

このごろ、新聞を開いてもニュースを見ても気持ちが沈むことが多くて、「なんて世の中なの?」と口に出さずにいられません。
高校を卒業する生徒の25%がまだ就職が決まっていないなんて!トヨタの欠陥車問題も、虐待で命を落とすこどもたちが増えていることも、昔は考えられないことでした。なにしろ同年代の吉永小百合サン(大学のキャンパスで、立ち話をしていた男子学生が急に口を開けたまま眼がうつろになりました。「サ、サユリが津田さんのうしろを通った」とわれに返った彼が教えてくれましたが、学部が違ったので会った?のはそれだけです。)が橋幸夫と「いつでも夢を〜♫」と歌ってヒットした時代でした。
 日本だけでなく、世界不況ということで、倒産やリストラはどの国でも起きているのでしょう。温暖化は進んでいながら、寒波や豪雨や竜巻がいつどこを襲ってくるかわからない。気候も近年荒々しくなってきた気がします。
 
 いま毎日「はらっぱ」で新入園児面接をしています。9人のつぼみの赤ちゃん、4人のつくし(1歳)、ひとりのたんぽぽ(2歳)、3人のすみれ(3歳)のこどもたちを4月から迎えます。赤ちゃんたちは面接のさいちゅう急にまじめな顔になってウンチをしたり、ハイハイの前の<お腹を基点にしてぐるぐる回る>を座布団のうえで披露してくれたり、それは可愛いです。もうすぐ卒園のゆりさんたちと初めて会ったとき、ちょうどこんな赤ちゃんだった・・のに、6年たつと「スミコさん、トシなんだから無理しなくていいよ」と若いつもりの私をさとしてくれるのですから、すごいですね、成長って!
 
こどもたちが、どうか「人生は生きるに値する」と感じて生きていってほしいと心から願っています。辛いこと、悲しいことのない人生なんてありえない以上、苦しみにつぶされない、人間としての力をしっかり持ったひとになってもらいたい。それにはこども時代どう育ったかが非常に大きいと思います。のしお保育園で赤ちゃんからしている「遠野のわらべうた」は、まさにひとが強く生きていけるよう我々の祖先が必死で考えだしたものです。いま、こんな時代だから、たくさん遠野のわらべうたをしなければと思います。

Posted at 2010年03月03日 16時41分41秒  /  コメント( 0 )

(2010年2月)                    流れ続ける武田節

 ピアノは弾けても三味線はどう弾いたらいいかわからない、ドイツ・リートは知っていても(♫いずーみにそいてしげーるボダイジュー♪とか)長唄はまったく歌えない。洋服は着られても(ときどき前後をとっちがえたりしますが)、着物は絶対ひとりでは着られない。
自慢じゃありませんが、いわゆる「和」の世界には縁なくここまで来ました。
 
先月、岩手のともだちの家に泊まりがけで行きました。昔は萱ぶきだったという大きな屋根の母屋の隣に白い土蔵がありました。「外壁が朽ちてきて、これからどうしたものかしらねえ」と言いながら友人は蔵のなかを見せてくれました。冠婚葬祭用に使われた、たくさんの漆器、代代のオヨメサンが実家から持参した長持、古い(売ったら高そうな)箪笥、旧家の歴史とにおいが満ちていました。蔵が150年も前に建てられたのにびくともせずに「在る」のはすごいことですね。昔の日本の職人さんの技術には今どんな研究も追いつかないそうです。
 
遅ればせながら日本の文化に惹かれ出したわたしですが、まだまだ素養が足りなくて、つい(?)のぞみ理事長に誘われ西洋音楽のコンサートに行ったり、CDでいちばんよく聴くのはシューベルトのピアノ・ソナタだったりします。しかし、なぜか最近あたまのなかに日本のある歌がひびくようになりました。昔、山梨出身のともだちから教えてもらった「武田節」です!何をしていても「甲斐の山々・・」から始まって「雲と興(おこ)れや
武田節」まで、間に詩吟まで入って流れるのですから本格的です。
 二番の歌詞「人は石垣 ひとは城 情けは見方 仇は敵」がわたしの持論「保育は人」とぴったりだと思ったのがこのエンドレス頭内歌謡の始まりらしいです。
 山梨県人でなくてもこれほど武田節が好きになったのは、やはりわたしの日本人の血でしょうか。誰もいないとき「ときこと風のごとくウ・・」と朗じると、それは気持ちいいですよー(ネコは驚いて逃げだしますが)。ご存知ない方、声をかけてくだされば歌って差し上げます!

Posted at 2010年02月01日 16時38分39秒  /  コメント( 0 )

(2010年1月)                     矢切りの渡し

新しい年を楽しみに待っていたのは、もうずいぶん昔のことのように思えます。このごろはお正月までにコレをしなくては、アレを終わらせなくてはと、追いかけられる日々です。
 母もそうでした。年子同然の3人の子どもを持ち、幼稚園の園長で、洗濯機も乾燥機もない時代。日頃の「もっと家事をちゃんとしたい病」(わたしと違ってとても几帳面でした)が年末に爆発するのが常でした。
 実家では大みそかの夜からおせち料理がならびました。元旦の朝はお雑煮のあと必ずお汁粉が出ました。暮れの家の台所は、小豆を煮るにおい、煮しめ用の野菜を刻む音、湯気がたちこめる中で忙しそうに動く母の姿がありました。
 子ども皆が小学生だったときの大みそか、母のヤル気がピークに達し、父と子ども3人と犬は家の外に押し出され(もう家にいられたら邪魔でうるさくて大変、お願いだから外に行ってて!)、江戸川の土手を歩いていました。
 天気がよく散歩にはもってこいの日でした。家に帰ったらまずい4人と1匹は矢切の渡しまで歩いていき、舟で向こう岸まで行ってみようということになりました。なにしろ演歌の「矢切りの渡し」が流行る前、柴又のフーテンの寅さんの映画だってできる前ですから、渡しには誰もいませんでした。大声で呼ぶと畑仕事をしていた船頭さんがやって来て、櫓をあやつって皆を対岸の松戸に運んでくれました。雑種の小さな犬の船賃が人間のこどもと同じだったのを覚えています(ソレハナイと思ったのも)。
 あれから様々な場所でいろいろな大みそかを迎えましたが、いちばん思い出に残っているのはこの日のことです。舟にあたる水の音、川面をわたる風の匂い、大みそかと 
いうとよみがえってきます。

Posted at 2010年01月07日 14時37分32秒  /  コメント( 0 )

(2009年12月)                   30年たたないと

 もう12月ですね。皆さんには2009年はどんな年でしたか? わたしには「民間委託ってなんだろう?」と考えさせられ続けた年でした。
 11月9日に理事長と練馬区役所で健康福祉事業本部長に会い、いま引き継ぎ中の区立豊玉第二保育園について話しました。部長から「一度民間委託を受けてから次に受けられるのは何年後くらいですか?」と訊かれました。「30年後!」というわたしの答えにびっくりされたようでしたが、心底そう思っています。
この1年大変だったことを思うと、企業だけでなく、社会福祉法人でも次々に民間委託に立候補し、受けているところは、どうしてそれができるのだろう?と疑問がわいてきます。
保育は一にも二にも「ひと」です。設備もよいに越したことはありませんが、こども達にいちばん大切なのは「ひと」です。ひとはそんなに簡単に育たないのです。

園が民間委託になると聞いた豊二の保護者有志が、突然のしおに来られてから2年たちました。受託先になるなんて夢にも考えていなかったのが、保護者の方たちの熱意や法人のあと押しによって来年の4月から本委託が始まるところまできました。1月からは豊二に決まっている職員は毎日練馬に通って引き継ぎをします。

昨秋、理事長を迎えてのしおで行った説明会のとき「ひとりも行かないでほしい!」と声がありました。残る者も行く者も、決してこの言葉を忘れずに社会福祉法人のゆり会の職員として、同じ気持ちで保育をしていきます。姉妹園なので人事の交流もしていきますので、今回「お別れ」とは言わないことにしました。─というわけで部長さん、30年たたないと受けられるかどうかわかりません。

Posted at 2009年12月01日 13時30分50秒  /  コメント( 0 )

(2009年11月)                 いつも赤毛のアンがいた

  
  小さいころから顔のソバカスについて「ソバカス美人っていってね、美人の証拠だよ」と両親が言っていました。いつもいつもでしたので、幼いわたしの頭のなかにはソバカス=ビジンとインプットされ、誰かから「ソバカスあるのね」と指摘されると大いばりで「うん、美人だから!」と答えていました。
  中学生になるころにはさすがに、この説には無理があると気づいたのですが、そこに現れたのが「赤毛のアン」でした。年も同じ、ソバカスだらけ! 住むのはカナダのプリンス・エドワード島ではなく東京の葛飾・金町でしたし、孤児ではなく「ちょっとお味噌を買ってきて」と散文的なことばかり言う両親はいましたが、とにかくソバカスではアンとわたしは同じ、とおおいなる親近感を抱きました。
  
  思春期をアンと過ごせたのはとても幸せなことだったと思います。想像するよろこび、腹心の友との友情、ライバルに負けまいと打ち込む勉強、正義感が強く思いやり深いまっすぐな性格etc. ひとつ違いの妹と毎日夢中でアンの話をしました。あまりに好きで何回も読んだので、せっかく英語・仏語版を買っても、日本語の村岡花子訳が頭に入っていてあまりベンキョウにはならなかったくらいです。

  孫のいる年になっても「これはアンの話にあった」と思うことがたくさんあります。
不景気で銀行が倒産するというのもマシュウの死によって知りましたし(当時の日本ではとうてい考えられないことでした)、突然マシュウが死ぬ前夜の描写と<一度その悲しみの冷たい、神聖な手に触られると人生は二度と、もととおなじにはならないのである。>という文章はいま深く心に沁みてきます。
  いつもそばにアンがいてくれてよかったと思います。ソバカスもいましたが。

Posted at 2009年11月01日 14時06分19秒  /  コメント( 2 )

(2009年10月)                       川がほしい!

 新型インフルエンザという去年まではいなかった伏兵の出現に「もしかしたら日帰りのお泊り(?)になるかもしれません」とお知らせを出した今年の越生でした。が、当日になると年長児17名全員元気で登園。微熱のあるひとさえいない、例年にないピカピカに健康な子ども達でした。天気もまさに絶好のお泊り日和。もちろんバスが越生についたとたんに水着に着替えておっぺ川です。(吉沢さんちのプライベートリバーといいましょうか、お庭から下りていくのでないと入れないのです。)昼食のパン焼き以外はみんなずっと川で過ごしました。

 水と子どもはこんなにも相性がよいのかと感動、呆然とした1日でした。石をひっくり返してカニを見つけるのに熱中する子、「吉沢さんがいいって言った!」と水中眼鏡を取ってきて水のなかに顔をざんぶとつける子、吉沢さんに教えてもらったとおりに竿を動かしたらほんとに魚が釣れた子、露天風呂よろしく岩にもたれて鼻歌まじりで空を見上げている子、日がかげるまでひたすら川で遊びました。そして川にはすべてがありました。「健康」「人間関係」「環境」「言葉」及び「表現」の5領域(保育所保育指針)すべてが。

 たっぷり遊んでお風呂に入り、夕食を食べて花火を見て、8時半には全員が眠りにつきました。それこそあっという間で、ホームシックにかかるひまもなく熟睡しているみんなの顔を見ながら「のしお保育園に川がほしい!」と痛切に思いました。宝くじに当たったら園庭に川をつくりたい。地主の東京都はダメというかなあ。 

Posted at 2009年10月05日 16時38分49秒  /  コメント( 0 )

(2009年9月)                  お豆腐屋さんと英語塾

 商店街のお豆腐屋さんが廃業しました。朝夕いつもお店から流れてきた油のにおいがなくなって寂しくなりました。その先の魚屋さんもついに閉店。本屋さんもなくなり、増えるのはドラッグストアばかり・・・と思って気持がふさいでいたら、久しぶりに高校時代の同級生からポンと背中を叩かれるような知らせがありました。
 
 宮永国子さんとは都立日比谷高校の同級生でした。当時の日比谷は1年から2年になるとき自分たちでクラスをつくりました。1日がかりで校庭に並んで、50人のクラスを八つつくりました。どのクラスにも女子が10人になるように決めるのがけっこう大変でしたが、宮永さんとわたしは同じクラスになりました。

 彼女は人類学を専攻し、国際基督教大学の教授から多摩大学グローバルスタディーズ創設学部長を経てハーバード大学研究員であるところまでは聞いていました。それが思い切って自分で<宮永コンピテント英語塾>を表参道に開いたというのです。

 大学で長年教えてきて「大学では遅い」と思うようになり、高校2年生からを対象に(高1までは日本語をしっかり身につけることが必要なので)、世界とわたりあえる英語力、人間力がつく勉強法をと自分で塾をたちあげました。生徒が半年で、学年最下位に近いところからクラスで10番になったのよ!─話す彼女は、自分がもっともしたかったことに打ち込んでいるひと特有の静かな昂揚感にあふれていました。高校時代と話し方もちっとも変っていない。3年のとき、全クラス参加する合唱祭で指揮者だった宮永さんは、大事なところで音程を狂わすひともいるクラスを辛抱強くまとめて、上位入賞を果たしました。いまでもその時の黒人霊歌「行けモーゼス」と、タクトを振る彼女の姿が浮かんできます。

 もし皆さんのまわりに「英語は大好きだけど、なかなか点に結びつかない」「センター試験をクリヤしたい」という高校2,3年生がいたらぜひhttp//competent.jp を見てみてください。(社会人向けの講座もあります。)宮永さんの決意が実を結びますように!


 きょう前を通ったら、お豆腐屋さんはガランとした作業場にテーブルとイスが持ち込まれて、主人夫婦と近所のお年寄りたちがお茶を飲んでいました。楽しそうでした。

Posted at 2009年09月02日 16時55分49秒  /  コメント( 0 )

(2009年8月)                   元ゆり会成人部

 第29回のしお夏まつりは奇跡的な涼しさのなかで、たくさんのひとに来ていただき、予定していたプログラムはぜんぶ滞りなくできました。とにかく前日までの天気予報では降雨確率60%でしたので、今年初めて予備日をつくったのがイケナカッタかなあと反省したり、でも当日雨でも8月29日があるではないか!と強気になったりしながら、できることなら予定どおり7月11日に行いたいと祈っていました。それが、雨の心配ナシ、むし暑くもなく、チューペットをかじりたいくらいには暑く、まさに夏まつりにぴったりの午後になりました。
 オープニングのゆり組の「かたみ節」はこども達が本当に楽しそうに踊っていて、見ている方も楽しかったですね。のしお伝統の「こども八木節」、いっせいに竹をうち鳴らすときのみんなの嬉しそうな誇らしげな表情がよかったです。そして職員の「7月エイサー」のあとの「保護者エイサー」の素晴らしかったこと! ものごとは上手にできるかどうかではなく、知らなくても「やってみよう」という意欲、ひとの目を気にせず没頭する姿勢が大事であることを、こども達に身をもって示してくださった皆様に感謝します。お父さんにおんぶされて一緒に踊ったいくちゃん、ご苦労さまでした。サラちゃんのパパの参加で「のしおエイサー」も国際的になりました。太鼓をうつ手つきを「マッチすってるみたいだった」と家族に言われたというEさん、まだあと3回あります。どうぞお子さんにコツを教えてもらってくださいね。
 退職した職員、卒園生たちもたくさん来てくれました。とくに今年22歳の13回卒園生たちは、開会まえの手伝いから最後の片づけまでしてくれました。元ゆり会でキャンプ
をしたり、よく秋津で集まったり(「○○ちゃんの家でこれからお好み焼きするんだ、買出しの集合場所はホイクエン!」といきなり現われてびっくりさせられたことも)、仲の良いクラスですが、今回、年度をこえて<のしお保育園元ゆり会成人部>をつくりたいと提案がありました。あゆみさんが世話人になってくれるそうで、目下うちあわせ中です。
それにしても今頃はまだ8月29日に向けて準備中だったかもしれないと思うと、7月に予定どおりに夏まつりができてよかったとあらためてホッとしています。

Posted at 2009年07月31日 16時35分00秒  /  コメント( 0 )

(2009年7月)                   長谷川摂子さん(2)

  前号で、こどもたちが大好きな絵本『おっきょちゃんとかっぱ』『めっきらもっきらどおんどん』や『人形の旅立ち』の著者・長谷川摂子さんが実は保育園の近くにお住いだったこと、新しい絵本を、出版に先立ってこどもたちに読んでみるために「のしお」にいらしたこと。そして私がある夜ラジオで摂子さんが「母語」である出雲弁について語るのを聴いた─ところまで書きました。
  1か月たって冷静に考えると、はたしてこれから書くのは<つづき>としてまで長谷川さんの名前をお出しする内容のものか、大変疑問になってきました。たしかに私には長年の懸案が解けた(と思います)おおきなできごとだったのですが、読んでくださる皆さんは呆れられるのではないか?しかし、園だよりに毎号書いてきて10年にもなります。いまさら呆れる方もいらっしゃらない(とっくにご存知でしょう!)と思い、つづきです。
  いまから40年以上まえ、私はフランスはパリ、パリはオペラ座近くのBという語学学校で日本語を教えていました。生徒のひとりにスペインのカタロニア地方出身(お父さんが。本人はパリ育ちです)の若い女性がいました。名前はベラシカといいました。ところが何度私が「わたしのなまえはベラシカです」と教えても「ワダースイノナマーエハベラスイカーデース」となんともいえないイントネーションで言うのです。一応私は東京育ち。
「そうじゃなくてワタシノナマエハ・・」「ベラースイカデース」何回やっても同じでした。
フランス人はこれほど訛りません。いったいどういうことなのだろう?そして日本でいえばこれはどこの訛りだろう?東北出身の友達にも各県別に訊いてみました。皆ちがうと言います。40年間抱き続けてきた疑問が摂子さんの放送で解けたのです、出雲弁でした!
  もう島根にも出雲弁で話すひとはいなくなっているそうです。遠くカタロニアの血をひくパリジェンヌが摂子さんの「母語」とよく似た発音で日本語を話していた不思議を、こんどお会いしたらお伝えしたいです。

Posted at 2009年07月02日 09時42分27秒  /  コメント( 0 )

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