社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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純子さんコーナー

(2011年2月)                   わたしのおじさん

 伯父は母の兄で、生涯独身でした。祖母が亡くなるとき母に伯父を頼む、と遺言していったそうで、母は一生懸命その約束を守りました。父はよく「結婚したらお兄さんつきだった」と笑っていましたが、内心フクザツなものがあったと思います。

 伯父は近くに住んで、週に3回はわが家に来て食事をいっしょにとり、両親より熱心にこどもたちの勉強をみてくれ、休みの日には遊びに連れて行ってくれました。
ほぼ年子のような3人のこどもたちは、いつも声をはりあげ、けんかにいそしんでおりましたので、ときどき「ここのこどもは躾がなってない。親はもっと毅然としないと!」と正しいことを言い出し、母は「自分にこどもがいないとなんでも言えるのよ」とため息をついていました。

 伯父がいていちばん助かったのは、わたしとひとつ違いの妹だったと、今にして思います。初めてのこどもで両親にも新鮮だった(はずの)わたし、女の子が続いてうまれたあとの念願の男の子だった弟、にはさまれて、ともするとミソッカス的立場になる妹を、伯父が「面白い子だ」と可愛がり(幼稚園の園長をしている現在も彼女は「面白い」ひとです)、きょうだい3人それぞれ満足して育つことができました。

 中学時代わたしが、親にペラペラしゃべるのなんかこどもっぽくって絶対するもんか、とひとりで反抗期をしていた時も、伯父にはどの高校に行きたいか、将来どんなことをしたいかなどという話しができました。

 親が3人いるみたいでうっとうしいと思ったのもたびたびでしたが、こうしてふり返ると、親とはまたちがうポジションで、親にはできないことをしてくれたのだと、今は亡き伯父の存在をありがたく感じます。

どの家庭にももれなく独身の伯父さんを、というわけにはいかないでしょうが、保育園がみんなの「おじさん」になれたらいいなあと思っています。


Posted at 2011年02月02日 13時48分42秒  /  コメント( 0 )

(2011年1月)                  うさぎのいないうさぎ年

 のしお保育園が開園から30年続けてきたことに<うさぎを飼う>があります。
 初代は、ピョン吉という名前のおっとりした性格の、白いうさぎでした。いまのプール倉庫のところに飼育舎がありました。年長クラスのうさぎ当番さん達が毎朝おそうじと水
のとりかえをしていましたが、入っていくときに気をつけないと脱兎のごとく(そりゃそうですね)逃げていってしまうので、追いかけるのがひと苦労でした。
ある朝見たら小屋はもぬけの殻で、団地の1号棟の方が「うさぎが来てますよ」と教えてくれました。なんとピョン吉は、道路の下をくぐって1号棟の庭に出るながーいトンネルを掘っていたのです! 一度は本格的に出て行ってしまって、何日たっても戻ってきませんでした。こどもたちが「うさぎさがしています。しろくてめのあかいうさぎです。」とイラスト入りの、かがみ文字なんかも入ったポスターをつくって貼って歩きました。いつもピョン吉を抱いて頬ずりしていたNちゃんは「ピョン吉帰ってこない!」と涙を流していました。
それが、ある日お昼の給食を食べているさいちゅうにNちゃんが「ピョン吉が走った!」立ち上がったのです。みんなでテラスに出たら、やせて汚れてはいるけれど、間違いなくピョン吉が帰ってきていました。どんなにこどもたちがホッとしたか、喜んだか・・「もう行っちゃだめだよ」とピョン吉を抱きしめてオイオイ泣いていたNちゃんの姿がいまでも浮かんできます。

昨年(2010年)の夏ごんたくんが急に死んでしまいました。歯が伸びる病気で月に1回は入院治療が必要だったごんちゃんに、夏の猛烈な暑さはこたえたのでしょう。のしおTシャツの背中のGONTAイラストで、すっかり有名うさぎになった(?)ごんちゃんですが、いまは歴代のうさぎたちと一緒に梅の木の下で眠っています。保護者の方には日曜日、祝日の餌やり当番、ありがとうございました。お正月にうさぎがいないのは初めてです(それも、うさぎ年に!)。これからのうさぎのこと、飼育のことを、春までにゆっくり考えたいと思っています。

Posted at 2011年01月03日 20時20分08秒  /  コメント( 0 )

(2010年12月)                 忘れられない卒園生

「去年の秋、司法試験に合格しました。いま弁護士めざして頑張って研修中です」。10回生のYさんからはがきが来ました。あら、やっぱり弁護士だった、検事じゃなかったね、とちょっとほっとした(?)職員たち。どうも検事になるらしいという噂がありました。かつてのしお保育園同期会で幹事だったYさんが、皆にそれは厳しく参加を迫ったこと(おかげで欠席は1名だけでした)、当日の会費のとりたてがビシビシ情け容赦なかったこと、から、Yさんの検事はぴったりだと思いながらも、ふるえていたのです。
 忘れられない卒園生に、5回生のHくんがいます。彼は、生きていたらこの12月7日で満29歳になるはずです。南アルプスの高峰・北岳で消息を絶って11年になります。ふもとの駐車場に車が残されていました。どんなに捜索しても見つからなかったということは、もしかしたら・・・家族でしたら望みをつながずにいられない状況です。でも、18歳で彼の姿は消えてしまいました。
 Hくんが高校生のとき、東村山の森に卒園生が集まってバーベキューをしたことがあります。夏休みに入ってすぐの暑い頃でした。車や電車でいっしょに行ったグループがカマドつくりをしていると、Hくんが生い茂った草のなかから現れました。秋津から自転車をこいで来た、と汗びっしょりで笑っていたHくん。あの日の空の色と、あの笑顔は忘れられません。
 これまでの卒園生510名。元気でいてほしい。元気でなくても、生きていてほしい。
29歳になったHくんと「あのバーベキューは、小学生がおにいちゃん、おにいちゃんとついてきて大変だったよねえ」と思い出話をしたいです。

Posted at 2010年12月01日 17時16分54秒  /  コメント( 0 )

(2010年11月)                  20歳以上集まった!

 それは、のしお夏まつりのあゆみさんのことばから始まりました。「卒園生同士がつながった会があったらいいなあ」。

のしお保育園は年長のクラス名が「ゆり」なので、元ゆり組ということで、第○期「もとゆり会」はあるのですが、卒園生全体の同窓会はつくっていませんでした。毎年、夏まつりの前に全卒園生にニュースを送り、保育園に帰っておいでー、と呼びかけています。ですから、小学生はもちろん社会人になった卒園生も顔を見せてくれ、模擬店の売り子をしてくれるのが「のしお夏まつり」です。それが、去年のあゆみさんのつぶやきから同窓会構想が持ち上がり、呑メルようになった20歳以上で一回集まろう、となりました。
職員の幹事は、のしおが開園したときからずっと保育士をしている(30年前は保母という名称でした。男性も保母資格でした。)大澤さんが引き受けてくれました。

 10月24日(日)午前10時から保育園の「どんぐり」(ホール)で『20歳以上集まれ!』の会が始まりました。往復はがきで出席と知らせてきた卒園生が、こどもを連れて、配偶者を連れて、ひとりで、姉妹で、同期同士で、次々に現れました。名古屋から来たという13回生のKくんは、ぜんそくもすっかり治って、たくましい社会人です。一期生のKさんのこどもはもう小学五年生。給食がちょっとしか食べられなかったHくんは、三児の父。
元職員もひさしぶりに顔を合わせて30年前にタイムスリップ。富山から駆け付けてくれたEさんの長男は大学生になったとか。そうだ、わたしだって開園のときは今の一期生と同じトシだったんだ!なんとなんと時間が過ぎるのははやいことでしょう。テーブルの間をヨチヨチと歩いている小さな人たちは、そのまま卒園生の昔の姿です。夢を見ているような、不思議な、しあわせな時間がたってゆきました。




Posted at 2010年11月08日 14時41分05秒  /  コメント( 0 )

(2010年10月)                      夜の病院

 入院してから退院までの1週間は、新しい経験ばかりの、不思議な時間の連続でした。
点滴というのはこんなものだったのか(3歳の孫でさえしたことがあるというのに、このトシで初めて受けました)、お医者さんは聞きしにまさる忙しさ、保育士になろうか迷ったという看護師さんがけっこう多い(スカウトは控えました)、検査は夜になることもある等々、珍しくてびっくりすることばかり。病院のスタッフには「日常」であっても、新米の患者には「次に何がおきるのか?」ドキドキするものだと感じました。
 初めて保育園の門をくぐった(あ、のしおには門がありませんでした。30年前の開園時は、いまの園庭西通用門から全員が出入りしていましたので、いちおう門がありましたけれど。)保護者の方の気持は、これに近いのかもしれませんね。わが園のスタッフは慣れないおとうさん、おかあさん達に「お帰りに園の布おむつはこちらに入れておいてくださいね」と、にっこりキビキビ言えているかなあ・・などと考えているうち1週間はすぐ過ぎてしまいました。そうそう、夕方のはずの検査が担当医師の忙しさのために、夜の7時半からになりました。もともと、そんなたいした検査ではなく、ベテラン医師が若い女性医師(25歳ですって。教えてもらっちゃいました)に技を伝授する機会でもあったようです。終わったのが消灯時間近くで、シーンとした廊下を歩いたとき「夜の病院だ!」と思いました。何回もこども達と見た絵本のとおりの光景。
 
初めての入院はあっという間に過ぎました。たくさんのひとに、たくさん心配をかけて、これまでいかに自分の健康を過信していたか、よくわかりました。たのしみにしていたゆり組の越生のお泊りに参加できなかったのは、かえすがえすも残念です。これからはココロをいれかえて、トシも考えて、無謀なことはしないで(なるべく)いきます。夏の疲れがでるころです。皆さまもどうぞ気をつけてくださいね。

*「よるのびょういん」 (福音館書店) 作:谷川俊太郎 絵:長野重一 写真

Posted at 2010年10月02日 10時47分21秒  /  コメント( 0 )

(2010年9月)                    子どもはコレカラ

「もう大人はこれ以上大きくならない。子どもはコレカラなんだから、たくさん食べるんだよ」いつも食事のとき父は子どもたちに言いました。5〜6歳の子どもにとって、父はとても大きく、トシに見えましたが、いま思えば当時30代でした。(ため息が出るほど若かっですねえ。)
 わたしたち3姉弟は、子どもは食べるのが仕事くらいに思って、のんきに食べられるだけ食べていました。まだ至るところ戦争の跡が残っている頃でした。
 現在は、どの家にもフツーに車がありますが、あの頃は自家用車なんて夢のまた夢でした。自宅の金町保育園から母の職場の金町幼稚園まで、父はスクーターで送り迎えしていました。ある日、母といつものように会話しながら家に着いたら、なんと後ろの席に母はいなかった。せっかちの父が、すっかり乗ったものと思ってひとりで帰ってきてしまったのでした。
住むところもなかった時代です。実家の保育園のホールは、居候さんたちの格好の寝場所で、毎日だれかしらが泊まっていました。わたしが母に叱られて泣いていると、慰めてくれるひとが必ずいて、一緒にあやまってもくれました。

とうとう・・と思いました。幼い子どもたちがマンションの部屋に置き去りにされて、死んでしまった。昔とちがって、日本中に食べ物はあふれるほどあります。でも、ふたりのきょうだいは食べられず、水も飲めず、誰にも世話をしてもらえず死んでしまった。
もう昔に戻ることはできません。車も家もあると快適です。でも、大きくなるんだよ、と言ってくれる大人がいないと、子どもはコレカラを生きていけません。いちばん大切なコレカラを・・。

Posted at 2010年09月01日 12時00分57秒  /  コメント( 0 )

(2010年8月)                  高沢先生と「ピカドン」

 1945年8月6日広島に地球上ではじめて 原子爆弾が落とされました。生き残った人たちの多くが、その時のことを「ピカッ」と光って「ドン」と音がした、と話したことから、この爆弾のことを「ピカドン」と呼ぶようになりました。・・・・と始まる絵本「ピカドン」のことを、どうしてもこの月のこのコーナーでご紹介したいと思いました。
 なぜ、絵本「ピカドン」が手元にあるのかは、今から30年前にさかのぼります。


 野塩で保育園をひらくために葛飾区の法人からやってきた私たちは、お隣の先輩園・清瀬上宮保育園にあいさつに行きました。当時の園長、高沢みわ先生の「10年間、市内ではたったひとつの民間園だったので、お仲間が増えてうれしい」に、どんなに励まされたかわかりません。
 それからは物心両面(印刷機を使わせてもらったり、年長クラス対抗ドッヂボール試合で野塩が負け続けたり!)でお世話になりました。先生が退職して盛岡に行かれる、と聞いたときのショックといったらありませんでした。

 今年、高沢先生は紙芝居「ピカドン」(山口いのちの会製作)の複製版を作り、上宮保育園だけでなく、のしおにも、ほかの市内の保育園にも贈ってくださり、続けて「ピカドン」絵本版を製作されました。

 私の夫は広島出身です。親戚のひとりは爆心地で原爆にあい、文字どおり「溶け」てしまって遺体も見つからなかったそうです。義母は被爆者手帳を持っています。その私たちは野球のカープばかりが広島で、原爆のことを話したことは余りありませんでした。

高沢先生は偶然、ある女性の書いた原爆体験記に出会い、いままでご自分が何も知らなかったことに気づかれ、広島まで行き、手記にある土地を訪ね歩かれました。そこから「ピカドン」複製版と絵本がうまれました。

 原爆で父・母・姉・妹を亡くし、思い出すのも辛くて、60年以上忘れようとしてきた方が<次の世代を担う人々のために>書いた体験記。それを読んだ高沢先生の<知ってしまった以上は>のひたむきな広島への旅。おふたりから渡されたバトンを、私は私なりにつなげていかなければと思っております。核の恐怖は減るどころか、世界中に増大してきているのですから。

 先月、先生のお嬢さんの「幸せな木」をこのコーナーで紹介しました。さくら文庫に「ピカドン」(絵本版)も加わります。両方とも一般の書店では手に入らない本です。お読みください。

*「ピカドン」についてのお問い合わせは、のしお保育園 または 下記へ。

     山口いのちの会 藤屋侃士 〒744-0061 山口県下松市河内幸ケ丘643-9 
                        TEL・FAX 0833-46-2010

Posted at 2010年08月01日 13時38分06秒  /  コメント( 0 )

(2010年7月)               どんぐり小屋のはなし

 「幸せな木」はページ数も出版社名もついていない、値段もついていない小さい本です。
開くと右側に文章(というより詩ですね)、左側は写真になっています。読んでいくうちに、これは<コンクリートに埋まりつつある足元>を憂いながらさびしく立っていたクヌギとコナラ(つまり、どんぐり)の大木の話だとわかります。
 車が通れないから切ってしまおうか、と邪魔にされていた木たちに、ある日子どもたちがやってきてのぼったり抱きかかえたり泣いたり笑ったり歌ったり、にぎやかになります。
 
 木とこどもの写真が素晴らしいのです。新緑の葉のなかで木の上にいる子どもたちの写真・・木は本当に誇らしそうで、だいじに子どもたちを抱えているように見えます。
こんなところがあったなんて!ネットで調べると、園からそんなに遠くない埼玉県の富士見市にありました。
 
 子どもの頃に自然のなかで何度も遊んだ体験のある人ほど「挫折に強い」「学ぶことに意欲的」であるということがわかったそうです(6月28日NHKラジオAM7時のニュース)。 私のトシまで生きてみると、このふたつがあればほかに望むもはない!と分かります。子どもの頃にすごく成績がよかった、よい学校に受かった─は、往々にして挫折のモトになることも見てきました。
  <今、どんぐり小屋で経験している時間は、学力至上主義・競争優劣の価値観の中でしか、育つことのできない子どもたちにとって、感性を育てる重要な時期に、経験すべき、最も大切なことなのではないかと、日々思います。>どんぐり小屋の活動に、ありったけの時間と労力を無償で提供している「とこちゃん」のことばです。

  この本は清瀬上宮保育園の元園長でいらした高沢先生より、のしお保育園の文庫にどうぞ、と寄贈されました。「とこちゃん」は先生の末の娘さんです。さくら文庫で手にとって、幸せな木と幸せな子どもたちを見てください。
 秋津にもどんぐり小屋ができたらどんなにいいでしょう!

Posted at 2010年07月01日 17時06分28秒  /  コメント( 1 )

(2010年6月)                 自分の花を

 親は自分をたなにあげて子どもには「もっと○○になってほしい」と願う存在なのでしょうか。わたしの場合でいえば5,6歳の頃に両親が「スミコは医者にしたいね」と話しているのを耳にして震えあがり(なにしろ注射が嫌いでした!いまでも)、それからの人生はゼッタイ医者ニハナラナイを目標にきたようなものでした。かなり後になってから、大切で面白い仕事とわかり、惜しいことをしたなと思っています。  

 こんどはわたし自身が親になり、わが子に「長靴を履いてする仕事についてもらいたい。農業、林業、畜産もいいな」と言い続けたのですが、みごと願いははずれ(あたりまえですね。こどもは親の言うことはきかないけれど、親のするとおりにする訳ですから)ひとり娘はいま、雨の日でも長靴を履きません。
ただ「大学に行きたいなら地方の国公立(経済的理由で)にしなさい。東京の大学に親元から通った母親(ワタシ)のわだちを踏まないように」という父親のことばをちゃんと聞いたのはなぜか?いまだに疑問です。

 以上の結果から、孫には具体的に何になってほしいと願うのはやめました。そのかわり、たった一回しかない人生、どんなに大変な境遇にあっても静かに「自分の花」を咲かせるひとになってほしい、と願っています。
 遠野のわらべうたでは「花」は眠っていても降りてこない、努力して「獲る」ものだそうです。ファイトを持って、楽しい(ラクではなくとも)一生を!なんになってもいいからね、と祖母になってやっと言えるようになりました。

Posted at 2010年06月02日 11時00分54秒  /  コメント( 0 )

(2010年5月)              子どもたちと日本の未来は・・

 久しぶりに全国私立保育連盟主催のシンポジウムに参加しました。これから日本の保育園はどうなっていくのか。幼保一元化は実現するのか。政権政党はどう考えているのか。各界の代表がシンポジストで、それぞれの意見を述べ、汐見稔幸先生がコーディネーターとして上手にまとめられ、かつ鋭い質問を投げかけておられました。
 その日、誰もが<日本はほかの先進国にくらべてこどもにお金をかけていない><日本のこどもは自尊感が低く、社会性に乏しい>と言いました。基調講演に立った仙石特命大臣はお母さんが高校の先生で忙しかったので「60のバーサンに育ててもらった」と言ってから、会場の「??」という視線を感じられたのか「昔は50以上はみんなバーサンでした」とつけ加えられました。(子育てについてのシンポジウムですので何歳からがバーサンであるか、それ以上言及はなされませんでした。)
 午後1時から開会で、会場は永田町の星陵会館─わが母校の同窓会会館のホールです。園で給食をたべていったら間に合わないと思ってキッチンに断りに行くと、心やさしい早川管理栄養士が「大丈夫」とお盆に一人前さっとのせてくれました。たけのこごはん、きゃべつとえのきのみそ汁、鶏肉団子と小松菜の煮もの、アスパラのごま酢和え、たくあんを急いでカキコンで(おいしかったです。のしおの給食はほんとにおいしいです)出発しました。
 5月末には国のプランが発表されるそうです。日本のこどもたちはどうなっていくのでしょうか。「いま保育の現場で働こうという人が少なくなっている。学童保育では高校生のアルバイトでさえ確保できない状況だ」という発言がありました。 
  保育にこそ良い人材が必要です。乳幼児期に愛情ゆたかに育てられたひとは一生自分も他人も大事にするでしょう。<あなたは安心して子どもを生み育てられますか〜愛する子どもたちと日本の未来へ向けて〜>シンポジウムのテーマが帰りの道中ずっと頭の中でひびいていました。
「あなたは安心して子どもを生み育てられますか?」

Posted at 2010年05月11日 16時44分39秒  /  コメント( 0 )

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