社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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(2011年12月)                     向かい合う覚悟

今年最後の「えがお」となりました。
2011年は3月11日以前と以後ではまったく変ってしまいました。
秋津では目に見えるものは以前と変わりなく、晴れた日の空はため息が出るほど碧く高く、暑くもなく寒くもなくて、秋はこども達が身体を動かして遊ぶには本当によい季節でした。
が、11月1日に皆さまにお知らせしたとおり、のしお保育園の園庭倉庫裏の雨どいの下で基準値0.24マイクロシーベルトを0.1超える放射線量が検出されました。福島第一原発事故による放射能にのしお保育園も(限定された一部とはいえ)汚染されていたのです。  検査に来た清瀬市の職員の人たちと一緒に、私も園の周囲や園庭をまわりました。雨水桝、側溝、砂場の砂、庭の土・・みんな低い数値でした。最後の倉庫裏で、測定器の針がビーっと0.24を超えて動いた時、放射能は恐い!と思いました。
「前に計ったところでは倍以上出たよ」と市の人になぐさめ(?)られても、放射能が福島から飛んできて、倉庫の屋根に積もり、雨水とともに樋から土に流れたという事実をまのあたりにして、ショックでした。目に見えず、匂いもないものが針を揺らしていると思うと不気味で、原発事故のとりかえしのつかなさを改めて感じました。
今回はすぐに除染してもらい、基準値以下に下がりましたけれど、もっと高い数値なのに計測もされず放置されている所が日本中たくさんあるはずです。汚染の主役は半減期が30年のセシウム137であるといいます。いま、私の手元にある『自分と子どもを放射能から守るには─今日からできる!キッチンでできる!チエルノブイリからのアドバイス』(世界文化社)には「私たちはこれから放射能と向かい合う時代に入ったと覚悟すべきでしょう」とあります。「あとで後悔しないために、故郷で生きてゆくために、知るべきこと、やるべきことがあります。まだ間に合います!」という著者バベンコさんのことばを受けとめて、保育園としてできることをしていきます。キッチンも食品放射能ダウンのために毎日、工夫し、調理しています。長い闘いになりますが、あきらめるわけにはいきません。こどもたちのために。

Posted at 2011年12月01日 15時23分54秒  /  コメント( 0 )

(2011年11月)                  いま考えなければ

 いま、これを書いているときもトルコの地震についてのニュースが流れています。発生から72時間以上たつので、がれきの下にいる人たちの生存が危ぶまれると。
 3月11日東北に起こった巨大地震と津波そして原発事故。その前の2月にもニュージーランドで地震が起き、日本人の語学留学生が亡くなったばかりでした。
 9月21日は台風15号が首都直撃、ひどい雨と風で夕方にはJRも西武線も停まりました。ちょうどお迎えの時間とぶつかって、園にも「武蔵野線の車内に閉じ込められています」「タクシーを待っているけれど、いつになるかわからない」と電話が続々入りました。キッチンは3/11のときと同じように「たきだし」の準備にかかり、7時にはこども達と職員いっしょに味噌汁とおむすびの夕食をとりました。
 のしお保育園が開園してから31年目になりますが、「たきだし」も「電車が停まってお迎えに来られない」も3/11が初めてでした。30年間なかったことが今年になって2回も起きている─じわじわと恐ろしくなりました。こども達は風のうなる音などどこ吹く風、1歳のAちゃんはおむすびを三つも食べて満足そうで、その顔を見ているとわたしも気持ちが安らぎましたが。
 日本も地球も自然がいままでとは違ってきているのでしょうか。地震に関していえば、世界的に活動期にあるらしい。日本は、地震のリスクのうえに原発の問題があります。これからを生きるこども達のために、いま真剣におとなが考えなければ、行動しなければと思います。


Posted at 2011年11月01日 09時38分57秒  /  コメント( 0 )

(2011年10月)                   言いづらいですか?

 また、今年も「利用者調査」の季節になりました。

 1年に1回、全保護者の方に調査用紙を配り、記入されたものは保育園ではなく直接調査機関に郵送してもらい、それをだれの文章かわからないように整理、プリントしたものが園に提出されます。もちろん各項目の満足度も数字で表されます。

 今年で5回目になるのですから慣れてもよさそうなのに、なんだかいつもドキドキします。「のしおさんは自由記述が多いですね、よいと思うところが改善してほしいことの倍なのですから、いいのですよ。逆の園だってあるのですから。そこの園長さんは寝込んでしまわれましたが。」となぐさめてもらっても、気持ちはどこか重いのです。

 調査項目のひとつに「要望や不満は、保育所に対して言いやすいですか」があります。のしお保育園は他の項目では「はい」が(ほとんど)90%台ですのに、ここは69%とぐんと低くて「そんなに皆さん園には言いづらいのですね・・」と肩が落ちていくような感じになります。

 ただ自分の体験をふりかえっても、たしかに保育園には言いづらかったです。わたしの場合はこどもをゼロ歳から預けていた園の園長が実の父親でしたので、言いたいことの公と私の線引きがむずかしかったこともありました。(担任の保育士さんも私たち親子は扱いにくそうでしたから、清瀬のように<こども、孫は同じ園は原則だめ>のほうがすっきりしていてよいと思います。)

 ほめて頂くのは名前がなくても、全然かまいません。でも、要望・不満はどなたから、と知りたいのです。わたしたちがお預かりしているのは物ではなく、大切なお子さんです。とびきりデリケートな0歳から6歳までのお子さんです。メールでも、連絡帳でも、直接口頭でも(もちろん)、どなたからと分かってお受けすることで、ご意見や要望をはやく保育に生かすことができます。いつ、どんな状況だったのだろう、どのクラスだろうかといろいろ考えるのに時間がかかりますし、結局わからないままだったりしますので。

 利用者調査が始まるだいぶ前、今から20年も前は保育園が夕方6時まででしたから、6時半からキッチンで保護者と職員で「人気メニューを一緒につくる会」を開き、食べながらおしゃべりをしたものでした。このごろは8時までの延長保育、職員の多様な時差勤務で、なかなかそんなのんびりした時間が持てなくなりました。かわりに利用者調査では余りにさびしいな、と思います。

 近々「ぐるんぱ」があります。出場でお忙しいとは存じますが、この機会にお話もできたらうれしいです。

Posted at 2011年10月03日 08時54分17秒  /  コメント( 0 )

(2011年9月)                    見つかりません

 作家がよく締め切りの恐怖について書いています。もう締め切りはすぎているのに何も書くことが浮かばない、そのつらさは本当に大変だろうなと想像しつつも、自分とはカンケイないことと思っていました。

 大学に入っていちばんびっくりしたのは、まわりに「芥川賞をとりたい」というひとがゴロゴロいたことでした。小説を読むのは好きでしたし、外国文学科でしたから文学は身近にありましたが、1年にふたりもらえるかどうかの芥川賞をこんなにたくさん狙っているとは、確率的にもきびしいものであることョ、と呆れていました。

 それが、卒業して何十年もたってから、わたしにも「締め切り」がやってきたのです。毎月、末日までに約千字くらい書く─そうです、この「えがお」の原稿です。
 はじめはその時々で思ったまま、感じたことを書くのは、それほどむずかしくはないだろうと思っていました。
保育園の園だよりですから、余りにかけはなれたテーマはなしとしても、ずいぶん自由にのびのび書いてまいりました。が、このところ〆切りが近付いても書くことがまとまらない「流行作家状態」に陥っています。

トシのせいは大いにあると思います。以前はあふれるように言葉がわき出てきて、千字なんてあっという間に埋まりました──ということはありませんでしたが、もっとはやく書けていたものです。今はぎくしゃく、時間もかかるようになりました。

しかし、それだけではない苦しい状態は、3月11日以降続いているわたしのなかの「どうにも表現できない」気持ちからきているのでは、と思っています。放射能が日々降り積もる今の日本、巨大地震がいつどこで起こるかわからない日本、原発を54もつくってしまった国で、これから子ども達をどう護っていくのか。

「えがお」のわたしに与えられたコーナーで何を書いたらよいのか・・・言葉を探しています。まだ、見つかりません。

Posted at 2011年09月07日 15時03分21秒  /  コメント( 0 )

(2011年8月)                  お風呂のなかの七面鳥


 なぜ七面鳥がいたのか?いまでも思い出すと不思議でならないのですが、たしかにわが家のなかを七面鳥がどさどさ歩いていました。大きくて、すごく怒りっぽい七面鳥でした。
庭にいるとこどもをつつく(実家は保育園でしたから庭イコール園庭、こどもはすなわち園児でしたので、これは困ったことでした)。犬といっしょにつないでおくこともできない。 窮余の策で彼はお風呂場にいることになりました。 その間、家族はどうしていたのでしょう?たぶん近くの銭湯に行ったのだと思います。戸をあけるとトサカを赤くしたり紫にして怒っている七面鳥に<お風呂取られてもらい湯>ならぬ銭湯通いをしていたのは昭和30年代はじめです。
 あの頃はなぜか動物が来ました。幼稚園をしている伯父のところにはヤギが持ち込まれ、
このヤギがまた気が荒くて(そういう育てにくいのが寄付されたのでしょう!)、ロープを切って逃げ出し、隣家に駆け上がって、家のひとが食事をとっていたちゃぶ台をめちゃくちゃにしたことがありました。伯父が申し訳ない申し訳ないと頭をひくくして謝る姿をはっきり覚えています。
 七面鳥は食べました。クリスマスに。ぱさぱさしていて、おいしくなかった・・。

 住んでいたのは一応東京の23区内でしたが、こどもの仕事はけっこうありました。ヤギの餌の草を土手までとりに行く。セーターをほどいて毛糸の玉を作るのに両手首を「貸す」。赤ちゃんの弟や妹を背負ってお守をする。
アパートはあってもマンションはなく、ラジオはあってもテレビはなく、自転車でどこまでも行った時代でした。道路が遊び場で、センパイがロウ石(えーと、滑石を細かくしたもので地面にこどもが絵や字をかいて遊びました)で「これが木っていうかんじ、木がふたつでハヤシ、みっつでモリよ」と教えてくれたときは、ワー、かんじっておもしろい!と感激しました。道路は、いま風にいえばプレ・スクールでもありました。

あの頃の東京電力の受け持ち区域の最大電力は257.2万キロワット。現在は、平成20年度の実績で6089.1万キロワットだそうです。桁違いなんてものではない増え方ですね。では人はその分23.6倍しあわせになったかというと、わたしには逆にみえます。 物は少なく、みんな貧しかったけれど、昭和30年頃わたしはとても楽しく暮らしていました。

Posted at 2011年07月29日 14時02分00秒  /  コメント( 0 )

(2011年7月)                     岩手にいった裁縫箱

 友人─くわしく言うと友人の友人─は斎藤洋(ひろし)さんといって、染色家で、京都の美術大学の先生もしています。

 その彼が「東北の被災した人たちに裁縫箱を」と呼び掛けているのを友人から聞き、のしおのスタッフ皆で協力することにしました。

握りばさみ、断ちばさみ、穴の太い針、針刺し、まち針、糸・・・目標20箱と定めて、それぞれ自宅にあるものを持ち寄り、無いものはヒャッキンを回って集めました。(こんなものが100円であるの!と今回驚きの連続でした。ヒャッキンにもいろいろ特徴があって、手芸関係の品ぞろえがいいのはどの系列かも知りました。)ペットボトルのふたに布をかぶせて、針刺しは手作りしました。

手芸が得意なKさんがそれらを要領よく箱にセットしてくれて、さあ、これで送れるとなったとき、メッセージを入れようということになりました。Jさんが持ってきてくれたかわいいメッセージカードに、ひとりひとりが一言ずつ書いて箱に入れました。
「がんばって」て書かないわ。もっとちがう言葉にしたい、とOさん。そうよね、災害のことばかりでなくて、ちょっとでもホッとしてもらえることを書こう、とわたし。園名と住所のはんこも押したカード入り裁縫箱は岩手の友人宅に送られていきました。

学生や知人と岩手の被災地をヴォランティアとして廻り京都に戻った斎藤さん(詳しくは<風の布・パピヨン>のブログをご覧ください)から、電話がありました。「被害がひどかった陸前高田の保育園に届けたら、東京の保育園からとわかって『手紙を出したい』と言っていた。保育園同士つながりができるといいね」と。

20の裁縫箱はいま、岩手のどこでどんな方が使ってくださっているのでしょうか。皆さんが縫物をしながら気持ちが安らぐ時をもてますように・・。

Posted at 2011年07月01日 09時54分37秒  /  コメント( 0 )

(2011年6月)                    守りたい!

              
まず5月14日の新聞から。

 ──  保育中の園児死亡ゼロ・・避難訓練・機転が命守る ──
  
  東日本大震災により宮城、岩手、福島の3県で被災した保育所が315に上り、このうち全壊や津波による流失など甚大な被害のあった保育所が28あることが13日分かった。
  一方で、保育中だった園児や職員で避難時に亡くなった例はこれまで報告ゼロであることも分かった。
  3県から厚生労働省に報告された被災保育所の件数は、宮城県で243件(うち全壊・津波流出は16件)、岩手県で34件(同12件)、福島県で38件。福島県については被害程度の内訳は分かっていない。
  乳幼児を預かる保育所は、各種災害を想定した避難訓練を毎月行うことが義務づけられている。大地震が襲った3月11日午後2時46分は、保育所では昼寝の時間帯だった。
  保育士らが園児を起こして身支度させ、乳児をおんぶするなどして集団避難したとみられる。
  避難時の状況を保育所から聴取した宮城県子育て支援課によると、異常な揺れを感じて日頃の避難ルートをやめ、さらに高い所へ逃げたため全園児を守ることができたケースもあったという。                 (読売新聞‘11.5.14)

 
 30度を超える急斜面を保育士たちが園児30人をおんぶし、四つん這いになって登って助かった大槌保育所。
避難訓練の準備中に地震が来て、90人の園児を予定避難場所よりもっと高い坂の上まで連れて上がって助かった野田村保育所。
津波の情報はなかったが所長の判断で避難を決め、職員の車に54人のこどもを分乗させて3キロ先の学校まで行き無事だった閖上保育所。
 
同じ仕事をしている者として、その時の園内に飛び交う声が聞こえるようです。泥だらけになりながら子どもを背負って崖をよじ登る保育士の姿も見えるようです。
 保育士の機転、勇気は津波をもしのぐものがありました。
しかし、どんなに「守りたい!」と念じても、放射能からどう子どもたちを守ったらよいのか、それこそ見えないのです。どう身体をハッタら(得意です)大事な子どもたちを守れるのか、信用できる情報を厚労省は保育園にください。

Posted at 2011年06月20日 11時14分16秒  /  コメント( 0 )

(2011年5月)                     李さんからの電話

「孫ふたりのパスポートすぐとって! 家族でマレーシアにおいで。1年でも2年でもこちらにいたほうがいい。」まだ巨大地震と津波と原発事故で何をどう考えてよいのか分からなかった3月13日、李さんから電話がありました。
 
マレーシアのクアラルンプールに住む李さんと初めて会ったのは47年も前、私が大学1年の冬でした。戦没学生記念会<わだつみ会>の数少ない会員として(なぜ会に入ったかを書くと、このコーナーのスペースがいつもの3倍くらいになるので省略)、大隈講堂の小ホールで講演会を開いていました。その日、講師の山下肇・東大教授に会いたいとやって来たのが李さんでした。

 当時、国がマラヤ連邦からマレーシアに変わるときで、それに反対していた李さんは東大の大学院受験に必要な大使館からの推薦状をもらえず、山下先生に相談に来たのでした。
 教授たちの家に直接行って話すのがよいと先生にアドバイスされ、友人に頼まれて私が翌日同行することになりました。(若いというのはなんでも気楽にひきうけちゃうことなんですね。でも、47年後も似たようなことをしてるのは...?)
 日曜日の朝に突然ふたりに自宅を訪ねられた教授たちは、さぞ迷惑だったと思うのですが、ちゃんと話を聞いてくれました。ただ規則は規則で、ひっくり返すことはできず、李さんは推薦状の要らないほかの大学院に進みました。

 李さんはそれから私の実家に遊びに来るようになり、過酷なアルバイトをしながら(ハンドバッグ用のワニの皮はぎとか!)真面目に勉強する彼を「うちのこども達に爪のあかでも煎じて飲ませたい」と両親は応援していました。母国に帰った李さんは会社をおこし、広い家を建て、年取った私の両親を新居に招待してくれました。

 李さんの長男はうちの娘と同い年、やはり日本の大学を卒業して、現在はマレーシアにいます。「オカーサン、ダイジョウブ?」と一昨日も電話をくれました。
 
私たちは李さんのところに避難することはないと思います。地震も原発もおそろしいけれど、私たちが暮らしていくのは日本しかないと思っています。マレーシアには必ずいつか遊びにいきます、孫たちも連れて。

Posted at 2011年05月20日 11時12分30秒  /  コメント( 0 )

(2011年4月)                       冷静に恐がる

 先日皆さんにお知らせしたように、園でのその日外遊びができるかできないか、できるとしたらどの位の時間か、については朝<東京都健康安全センター>のホームページで<1時間ごとの大気中の放射線量>を調べて決めています。このところずっと平常時の上限を上回っていますので、その度合いで外に出る時間を割り出して、30分とか40分というように短めにしています。 

 この数値なら心配はない、(正確には「現時点においては健康に影響を与える数値はありません」)とセンターは言っていますが、まったく以前と同じように外に出ることはためらわれます。「きょうは毎時0.108シーベルトだから・・」と計算する日々が来ようとは!
  地震の揺れもおそろしいですが、目に見えない放射能はなんとも不気味で、知識を持ち合わせない自分がはがゆくてなりません。 

 こどもたちは希望がなければ生きていきません。こどもたちに希望と未来と生命を与え続けるのがおとなの役割です。そのためには願望と現実をごっちゃにしないように、と自分に言い聞かせています。とても難しいけれど<冷静に恐が>っていきたいと思っています。保護者の皆さまと一緒に、現実をきちんと知りながら、いちばんよい手だてを落ち着いて探っていくようにしたいと思っています。大切な大切なこどもたちのために!

Posted at 2011年04月04日 10時52分17秒  /  コメント( 0 )

(2011年3月)                     Bでいきたい

 用事があって12年前の園だよりをひろげて読み始めたら、とまらなくなりました。
「おたんじょうびおめでとう」コーナーに6歳で名前がでているのは、このまえ大学の保育科に合格したと報告に来てくれたRさん! 12年たったというのは、そういうことなのねー。アレアレ、<募集・保育園のホームページを開きたいのですが、誰か手伝ってくれませんか?>ですって。つぎの号には<保護者のNさんがお手伝いしてくださることになりました。ただいま解説に向けて準備中です。もう少しお待ちください。>とあります。    日曜日、事務室でNさんからwwwとは・・というところから教えてもらったのが今のホームページの始まりでした。Nさん、ありがとうございました。
などと読み進むうちに、なにか感じがちがうのです。同じ園だよりで、記事もほとんど変わらないのに、なぜだろう?と紙面を眺めていたら、1998年はまだ用紙がBサイズだったのです。そして、作るのもパソコンではなくワープロでした。ほけんだよりも献立表も手書きです。(献立は11月までは手書きで、12月からワープロになりました。)
 A3にくらべて小ぶりなB4サイズの紙面には、手描きのイラストがあちこちに。たとえば<つぼみ>のクラスだよりはこんな具合です。



保母というのが時代を感じさせますね。それにしても、この12年の間の変化の大きかったこと!ずいぶんがんばって使い続けたワープロも、インターネットの便利さの前についに姿を消しました。上の文中のチャチャも死んでしまいました。のしお保育園の園児たちをいつもなぐさめてくれた犬でした。
 「えがお」のサイズはBからAになりましたが、保育はのんびり温かく、Bサイズのままでいきたいと思っています。

Posted at 2011年03月04日 13時52分42秒  /  コメント( 0 )

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