社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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(2012年10月)                   うめのたけデビュー

 33年前、初めて秋津駅から保育園(まだ園舎は建っていなかったので正確に言えば予定地)まで歩いたとき、緑の多いきれいなところだなあと感じたのを覚えています。駅から曲がる道は梅の林が目じるしで、向いはうっそうとした藪でした。いま、梅林は市営駐輪場に、藪だったところには何十軒も住宅がたっています。地名には梅園、竹丘と残っていて、野塩もいれて頭文字をとると「うめのたけ」になり、<清瀬市六小地区自治会連合会>の機関誌名であるとわかったのは最近です。

「連合会にのしお保育園さんも入りませんか?」と声をかけていただき、東村山警察からのメールも転送されてくるようになりました。(このごろ多いのがオレオレ詐欺に注意!です。こんなに報道されていてもひっかかる人が絶えないのはなぜなのか・・。)

これまで園として自治会に入ったことがなく、なにかあると園舎のある都営住宅の自治会に相談したりしていました。住宅と保育園は物理的にくっついていますが別のもので、番地も違いますし、現在団地から通っている園児はひとりもいません。

このような状況のなかで、「うめのたけ」の「の」として自治会連合会の会員になり、地域の保育園としてご近所さんとの絆を深めたいと思うようになりました。

来る10月28日(日)六小の校庭で開かれる「うめのたけ」のおまつりに有志という形で園児の「こども八木節」をステージで踊ります。お子さんと一緒にいらしていただけますか。

おまつりは10時からで、のしお保育園の出番は11時から11時15分を予定しています。中学生の吹奏楽からシニアの南京玉簾まで、にぎやかなおまつりになりそうですが、のしお保育園の竹音高き「こども八木節」で自治会デビューいたしましょう!

Posted at 2012年10月02日 15時25分23秒  /  コメント( 0 )

(2012年9月)                  「ぐるんぱ」はグルリンパ!

 今年も10月7日(日)に六小の校庭を借りて「のしおぐるんぱ」を行います。・・と言うと皆さんが「あ、ぐるんぱね」と分かってくださる。そして当日にはお弁当や敷物を持って10時に集まってきてくださり、なかには「今年はぜったい大ツナだー!」と綱引きの優勝チームに配られるツナ缶詰<大>ゲットにむけて腕をさすっている方もいらっしゃる。よく考えるとかなり不思議なネーミングであり、催しですね、「ぐるんぱ」って。

今からさかのぼる17年前の秋に「ぐるんぱ」は始まりました。それまでは園庭で「うんどうかい」を行っていました。のしお保育園は開園から15年間はふつうの運動会で、今年が17回目の「ぐるんぱ」、もう「ぐるんぱ」の歴史のほうが長くなりました。

なぜ運動会をやめたのか。話せば長くなりますが、直接のきっかけは、最後の牘親芦颯縫紂璽〞での「ビデオ撮影は禁止!」の記事でした。
初期のころはのんびりしていた観客席がビデオの普及とともにどんどん熱気を帯びていきました。拍手のかわりに撮影機のレンズがこども達を囲むような状態に、ニュース担当の保育士が「禁止!」と思わず書いたのが発端でした。それに対して「せっかくビデオを買ったのに困る」「言い方があるでしょう、禁止はひどい」「ビデオが目に余ると思っていた」等々びっくりするほどたくさんの保護者の意見が連絡帳で寄せられました。それをすべてニュース号外としてのせて、なぜそう思ったか私達の感じていることも書きました。また、たくさんの反響→号外2号、と運動会をめぐっての意見交換は続きました。

職員も「保育園児と運動会」について勉強し、話合いました。外国には日本の運動会のようなものは無いこと、明治政府が軍隊の演習を学校に取入れたのが始まりだったことも分かりました。のしおは運動会を<園での日頃の体育的活動を見てもらい子どもの成長を確かめ合う機会>としていました。しかし、練習でどうしてもずれてしまう日課、普段とガラリと違う当日の雰囲気。「すみれ」や「れんげ」のこどものなかには手も足も出ない姿(運動する日ですのに)が見られました。─本当に運動会は必要なのだろうか?─17年前に私たちは運動会をやめると決めました。

そうしてできたのが<みんなで身体を動かして楽しむ1日>です。なにかいい名前はないかなーと考えていたとき、ある子が「きょうグルリンパってしたの」と鉄棒(当時ありました)で回れたことを誇らしげに話していました。グルリンパ─ぐるんぱ─みんなになじみ深い耳の大きな象さんの名前でもあります。運動会は「ぐるんぱ」になりました。
「ぐるんぱ」のよびものはゆり組のリレーと保護者の綱引き。今年の栄缶はどなたの手にわたるでしょう?!

Posted at 2012年09月19日 08時42分43秒  /  コメント( 0 )

(2012年8月)                      必ずだれかが

夏まつりには毎年だれか─―10年も20年も会わなかっただれか─―が来てくれる。確信になっています。 去年はMくんでした。
保育園時代の色白のぽっちゃりした姿からは想像できないがっしりした体つきになって、「たぶんわかってってもらえないと思って」と保育園時代の写真を握りしめて来てくれました。
卒園してから27年。よく思い出して来てくれたねえ、とひとしきりあの頃の話をしました。Mくんも専攻しているガクモンのことを(さわりだけちょっと)話してくれました。

今年はK子ちゃんが開場の前から来てくれました。卒園後に引っ越ししていったので久しぶりです。今年の5月にお母さんがK子ちゃんの成人式の写真を送ってくださいましたが、実際に目にするK子ちゃんのほうがずっときれいで、白い花のように素敵なひとになっていました。1歳でのしおに入園したとき一緒で、お誕生日も一緒のSちゃんが来るかなあとたのしみにしていましたが、今年は弟のRくんの方が来てSちゃんは来られず。仕方がないのでRくんとふたりで写真におさまって「お母さんに見せてあげる」ことになりました。
高一のRくんは中一男子が「開会のことば」を緊張気味に練習しているのを「あいつら大丈夫っすか。オレかわりにやりましょうか。しっかり盛り上げてみせますから。」と言い出し、Rくんならやりかねないと私があわてるのを見て楽しそうにしていました。ひとって基本的に保育園の頃と変わらないものなのですねえ・・。

今年は涼しいなかで、雨にも降られずに夏まつりができたのが奇跡のようです。職員と保護者の「7月エイサー」には道路から拍手を送ってくれた地域の方がいました。
来年の33回目の夏まつりにひさしぶりに顔を見せてくれるのはだれでしょう?

Posted at 2012年08月02日 11時17分43秒  /  コメント( 0 )

(2012年7月)                    昭和の電話


 電車のなかで携帯をのぞいているひとが多いことに、びっくりします。以前は「フケイタイ!」と周りからしょっちゅうブーイングを受けていた私も、最近はでかける時まず携帯をたしかめるようになりました。使い慣れるとほんとに便利ですもの。

 はるか昔のわが高校生時代のことです。毎年全員の名簿が配られました。住所と保護者名とその職業までのっていましたが、電話番号がないひともいました。番号のあとに「呼」とついているのもありました。それは「自宅の電話ではないけれど呼び出してもらえば出ますよ」という意味です。(先月のドテラにこりてしっかり説明をいたします。)
国会議事堂が校庭から眺められるところにある都立高校でも、電話の普及率はその程度でした。
 高校のエントランス(と言っていいか。府立一中時代のおもかげの残る古臭い建物の玄関部分)に公衆電話がひとつありました。それは事務室に隣接していました。ある日生徒が「きょうは文化祭の準備で学校に泊まりこむから」と家に電話していたら「いけません!」と事務長が飛びだしてきた、プライバシーの侵害だ、許せない、と生徒たちはカンカンになりました。電話ボックスの声は隣に筒抜けだったのです。
 
 私の実家は保育園という仕事上、電話は早くから入っていました。子機などなくて、家の真ん中にある父の事務机に1台だけ。誰からかかってきて何を話しているか、家族全員に聞こえてしまいます。長女の私の1歳下に妹、3歳下に弟の3人きょうだいが高校〜大学生時代はもう大変でした。「早くおわってよー。もうかかってくるんだから(誰から?)」「今の言い方ひどい!○○さんがかわいそうだよ(相手の名前も話の内容もみんな聴いている)」。その間に父が相談部長をしていた全国私立保育園連盟の園長さんからもかかってくる。電話をめぐっての毎晩の騒ぎはまさに「昭和」でした。一家にひとつしかなかった電話で家族はにぎやかに繋がっていたのだと思います。

Posted at 2012年07月03日 11時51分29秒  /  コメント( 0 )

(2012年6月)                  昔のことではなかった

「子どもに自由と愛を─保育に生きて45年─」は1985年、いまから27年も前に出版された本です。著者は父・津田富三。
実家にも我が家にも妹弟の家にも、この本が書棚にたくさん並んでいた時代があり(どこもスペースがないので在庫を分けあい)、もう十分読んだ気になっていたのですが、今回偶然に手にとったら最後まで一気に読んでしまいました。

父の生い立ちと保育の道に入って45年間のことが書かれています。なかでも父が10歳のときの関東大震災は当時の自身の日記をもとに書かれています。
「帰ろうと思った時は、すでに遅かった。
 幼かった僕は全く恐怖に襲われた。死に直面したのだ。大地は揺らぐ。」

横浜に住んでいた父(といっても小学4年生のこども)はとっさに干してあったどてらを抱え、火の手を避けて山の上に逃げます。途中道に落ちていた缶詰を拾って、どてらの袖に入れていったので夜露もしのげたし、食べ物にもありついた─子どもの頃から繰り返し聞かされた震災の話ですが、東日本大震災や近い将来起こるという直下型地震を思うと、昔ではなく明日のことでもあると感じます。

最近公開された福島第四原発の写真にはぞっとしました。「高い放射線・展望見えず」(5/27付 毎日新聞)─また大きな地震がきたらどうなるのか、日本はどうなるのか。関東大震災のときにはなかった放射能の危険を抱えて、こども達を護っていくのは父の時代より格段にむずかしくなっています。でもこの本を読み、災害のなかを生きぬき、戦後の混乱のなかで保育園をつくった父が、空から「くじけず最善をつくすんだよ」とメッセージを送ってきたように思えました。

追:「どてら」ってもう死語なんですね。ワードの、文章的におかしいという赤の下線が
  ひかれたので、園の若い保育士さんに訊いたら「なんですか?」と言われました。
  35歳以下の人とワードは「どてら」を知りません!

Posted at 2012年06月07日 08時56分04秒  /  コメント( 0 )

(2012年5月)                 ソフト・ランディング


 来ました、来ました、新一年生が「ごたごた荘」に! ランドセルを背負って8人いっしょに走って玄関に入ってきました。担任だった恵子さんを見つけると、歓声をあげて、とびつく人、ぶらさがる人・・会わなかった2週間のあいだに学童、入学式と新しい体験の連続だった卒園児のみんなは、元の担任に全身で甘えていました。

 私が初めて飛行機に乗ったのはロシア(当時のソ連邦)でした。ヨーロッパに行くのに横浜からハバロフスクまで船と汽車、そこからモスクワまでが飛行機でした。座席がてんでんばらで、テーブルをはさんで向かい合った席、電車のように横にならんでいる席、とおよそ思い描いていた飛行機とは違いました。プロペラつきだったので機内のやかましいこと!窓には氷がどんどん貼り付いてくるし、うるさい・さむい・こわいと震えながら無事に着くことを祈った初飛行でした。
 
 あれから何回もヨーロッパ─日本を往復しました。昔は格安チケットは表向きは存在しませんでした。高い正規料金を払えない学生たちは、怪しげな旅行会社でA航空の切符を買っていました。私も日本への一時帰国に一度A航空に乗りました。パリからスイス、アフリカ、中東、インドと南を回っていく路線です。出発日さえも平気で延びてしまい、乗り継ぎ機は見当たらなくて結局翌日までカイロの空港に足止め、というさんざんな旅でした。でも、時間(だけ)がたっぷりあった若いころの経験として忘れがたいものになりました。
 それに、A航空のパイロットはすご腕だったのです。各駅停車と呼びたいほど国ごとに停まったのですが、着陸がとてもなめらかで、あんな優しいランディングもその後味わったことがありません。

 のしお保育園が「ごたごた荘」を始めて14年になります。卒園して小学校へ旅立っていくこども達が「保育園にいきたいな」と思ったら来られるように、一緒に過ごした仲間たちとも顔を合わせられるように、つまり学校という陸地へのソフト・ランディングをめざしているのですが、A航空のパイロットのようにうまくいくでしょうか?

Posted at 2012年05月07日 08時52分53秒  /  コメント( 0 )

(2012年4月)                      姉妹園ていいな

 3月19日(月曜日)に練馬から豊玉第二保育園年長ひまわり組のみんながやってきました。「ちょこちゃんと金太郎くんが走っているところを見たい!」というひまわり組の願いをかなえるためです。

 豊玉第二保育園(以下、豊二と略します)は西武池袋線練馬駅の近くにあります。高いビルがたくさん並んでいる通りを歩いて行った住宅地の区営住宅の下にある園です。2010年4月に練馬区から社会福祉法人のゆり会に運営を委託されました。園長、副園長、主任、副主任、栄養士としてのしお保育園から職員が移っていきました。つまり豊二とのしおは姉妹園です。

 ポニーの2頭も、月に1回ですが2年前から練馬に行っています。23区内の駅に近い保育園なのでしかたないとは思いますが、豊二の園庭はとても狭いのです。お世話をしたり、乗ったりはできるけれど、2頭が走る姿を見たことがないこども達の「見たい!」をかなえようと19日に秋津に来てもらうことにしました。

 19日はちょっと風は強かったですが、ひさしぶりの青空になりました。ちょうどどちらも16人ずつの年長クラス。皆でちょこちゃんと金太郎くんの手綱をひいて空堀側の遊歩道を歩いていきました。河原に着き、吉川さんの指示のとおり土手に背中をつけて待機していると、地鳴りのようなズンズンという音とともに金太郎くんが走り抜けていきました。そのあとを小柄なちょこちゃんが彼女にしては“全速力”でチョコチョコと走っていきました。馬の走る姿ってなんてかっこいいんでしょう!ひまわりさんのおかげで私も何年かぶりに見ることができました。

 そのあと、広い河原で園対抗でリレーをすることになりました。2回しましたが2回とものしおチームが勝ちました。のしおのゆり組にとって初めて(できっと最後)クラス全員がひとつのチームで走れました。

それから、どちらの園も卒園式でうたう<とびだせ宇宙へ>をうたいながら帰ってきました。しみじみ姉妹園ていいなあと思いました。

Posted at 2012年04月11日 15時32分15秒  /  コメント( 0 )

(2012年3月)                        渡されたチラシ

 日曜日、孫と手をつないで中村橋の駅の前を歩いていたら「認証保育室でーす」とチラシを渡されました。ひどく寒い日で、冷たい風が吹き抜けていく道路に立ってチラシを配っているのは年配の女性でした。誰にでもではなく、小さなこどもを連れた人の目の前にさっと出てくるあたり、なかなかのウデマエとお見うけしました。
 
チラシには『保育料割引券5.000円分進呈!(月極入園)』『一時保育無料券進呈!(一時登録)』『『就労証明のない方もご利用いただけます!』とうたってあり、保育ルームFは東京、埼玉、千葉、神奈川一円に26園もチェーン展開しているようです。
 このチラシ、なにかに似ているなと思ったら、家の近くのフィットネス・クラブの折り込み広告でした。大人がマシーンに乗って汗をかいている写真ではなく、エプロンをかけた小さなこども達がお弁当(仕出しのお弁当なのだと思います)を食べている写真という違いで、あとは割引も無料券もまったく同じです。
チラシで「おあずけください」と誘っているのは、過当競争でこどもがなかなか集まらないからでしょうか。

7時半〜21時 おカネさえ払えば、生後3カ月からあずかってくれるのは便利ですし、料金もワリビキしてくれるなら助かります。でも、あずけるのは人間のこども。
以前、しばらく留守をしなければいけなくなり、わが家の猫(6年前たかさご保育園の門の前に捨てられていたのをひきとった)をどうしたものかと調べたら、猫シッターさんがいました!必ず前もって「面接」が必要で、料金も認証保育室より高い設定になっていました。
認可保育園に入れない待機児がたくさん出る一方、「お客さん」を集めようと認証保育室がビラ配りに精を出す東京・・・わたしの胸の中も冷たい風が吹いていきました。

Posted at 2012年03月07日 16時29分27秒  /  コメント( 0 )

(2012年2月)                   フランス人にはなれない

 横浜育ちの父は毎日港を出入りする船を見ては、いつか外国へ行くのだと憧れていたそうです。その父が開いた保育園の園児・第一号のわたしは、英語の歌を教えてもらって♫メリーハダリトルラン♪♬といい気分でうたっておりましたが、「ラン」とは「ラム」で、Mary had a littre lamb が正式な歌詞だったのだと気づいたのはずっと後でした。

 父から受け継いだ外国志向はおとろえることなく、大学は外国文学科でロシア文学を専攻し、卒業後はフランスに渡り3年パリで暮らしました。

 パリは日本人にとって世界のどの街より精神疾患にかかる率が高いといわれています。余りにも習慣や文化が違うところにもってきて、日本人が抱くパリのイメージと現実とのギャップに精神のバランスが損なわれると。わたしの場合は無事帰国できましたし、それなりに充実した面白い日々でした。

 しかし「東洋の果てから来たのだからフランス語がヘタでもしょうがない」なんて全く思ってくれない人々のなかで暮らして、自分が勉強している言葉はこの風土のなかでできあがったものだと骨身にしみて感じるようになりました。地震がない土地だから中世からの建物も現役で使われていますし、そういう環境でできあがった気質が日本人とはまったく異なるのも当然です。どんなに頑張ってもわたしはフランス人にはなれないし、なる必要もないのだと3年かけてわかりました。

 のしお保育園では「遠野のわらべうた」を保育の柱にしています。いまは岩手県遠野の阿部ヤエさんしか伝えるひとのないわらべうたは、もとは日本の庶民がこどもを人として育てるためのものでした。阿部さんの本を読むと、昔の日本の人の知恵の深さにびっくりします。
父にも「昔の人は三つ子、満2歳までに一生の基礎ができると魂をそそぎこんで育てたし、その方法も実に科学的で、外国の保育の理論より日本人にぴったりなのよ」と報告したく、天国(行けたとして)でたっぷり話し合えるのが楽しみです。

Posted at 2012年02月08日 11時08分35秒  /  コメント( 0 )

(2012年1月)                とびっきりのお正月

新しい年が始まりました。3・11原発震災以降世界が一変してしまった気がする、といったひとがいました。私もそんな気持ちで、これまでのように「あけましておめでとうございます」と言えずに、賀状にも「春」書いたりしました。

お正月も昔とは変わってきています。こどもの頃、元日の朝目が覚めると枕もとにある新しい下着一式を、寒い寒いと震えながら着るところからがお正月でした。

わたしの両親は、父が保育園、母が幼稚園のそれぞれ園長をしていましたので、当時にしては珍しい共働き家庭でした。(小学1年の国語の教科書の1ページ目に白いかっぽう着のお母さんが学校から帰ってきたこどもを「おかえりなさい」と迎えている絵があって、わたしとしてはとても不思議で、いまでも覚えています。)家にはほとんど年子の小さなこども3人がいて、園では200人のこども達をみるのですから、母の忙しさはなみたいていではありませんでした。

その母がお正月はこどもとトランプをして遊んでくれました。3人きょうだいでいつもカルタやトランプをしていました。でも大人、特に母が入ってくれると、楽しさはふだんの150倍ほどにも感じられました。あしたもあさってもお休み、お掃除は暮のうちにすませてあるし、おせちもつくってあるからお母さんはのんびり遊んでくれる、お正月っていいなあ・・ため息がでるほど幸せでした。

お正月はお店もみんな閉まっていて、大みそかに買い忘れたりしたら大変だった昔。いまはコンビニが開いていて、いつでも買うことができますが、世の中が便利になったぶんとびっきりのお正月らしさが消えてしまって、それはこどもにとっては残念なことだと昔のこどもは思います。

Posted at 2012年01月06日 10時35分40秒  /  コメント( 0 )

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