社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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純子さんコーナー

(2014年6月)             「言いたくありません!」

        
 朝のラジオで<花普及センター>の人がいまの季節の花情報を歯切れよく、やや早口で話していました。
これからはユリが出回るのか、と茶碗を洗いながら聞いていると、突然「言いたくありません!」という悲痛な声が。センターの人がアナウンサーの質問に答えたくないというのです。父の日の花についての質問でした。

みなさん母の日のカーネーションはご存知と思いますが、父の日の花が“黄色いバラ”と知っていましたか? 私は知りませんでしたし、花普及センターの人も「言いたくない」ほど黄色いバラは父の日に売れない!そうです。
母の日が5月の第2日曜というのは大々的に宣伝されるし、当日の花屋さんはカーネーションを買う人であふれています。そういえば父の日はふだんの日曜日と変わらない店頭でした。

以前このコーナーに、私の父の花は黄色いバラです、と書きました。生前よく本人が「いちばん好き」と言っていたので。それが“全”父の花であったとは・・。

小学生のときの夏休み、父とふたりで暮らしたことがあります。弟と妹を連れて母が遠くへ行き、たぶん私が家に残ると言ったのだと思います。父は保育園長でしたし、我が家は保育園の2階でした。

1週間はご機嫌ですぎていき、アレっと思い始めたのは2週間目。別に何がどうということはないのに「ちがう」と感じたのです。
 母の目は常に子ども達に注がれていて(光っていて)、自分のことよりまず子どもという情熱が周囲5メートルを熱くしていました。いつもはうっとうしかったその熱気がなくなり、淡々とした父と暮らすうち「オカーサン早ク帰ッテー!」と叫びたくなりました。2週間後に母が戻ってきたときのうれしかったこと! ですから黄色いバラはカーネーションにかなう筈はないですねえ。

6月15日、私は父の遺影に薄いクリーム色のバラを1輪飾るつもりです。

Posted at 2014年06月16日 13時48分41秒  /  コメント( 0 )

(2014年5月)                  おかゆDNA

 季節外れの、何十年ぶりのインフルエンザでした。

絶対かからない、となんの根拠もなしに思い込んでいましたので、夕方、背中がぞくぞくしてきたときも、こめかみのあたりが痛みだしても、疲れたのだから今晩早く寝ようと思っただけでした。それが、家についても夕ご飯を食べる気になりません。私にしてはアリエナイことです。熱をはかると39度近く。でもまだ、たくさん水分をとって寝れば大丈夫と思っていました。

その晩は「寝る」どころではありませんでした。熱と節々の痛みで一晩中悶々としていました。
ここに至って、ただの風邪じゃないとわかり、うまれて初めてインフルエンザ検査を受けました。痛いと聞いていましたので、とっさに「24時間たっていないと反応がでないのでは?」とお医者さんに言いましたが(痛いのはほんとに苦手です)、「うちには検査キットがふたつしか残ってないので、明日ならほかのところに行ってください」「時間が短くても出る人は出ますよ」と言われ観念しました。結果はインフルエンザB型。

  検査そのものは以前、耳鼻咽喉科で喉をみてもらったときの方が痛くて、あっという間に終わりました。「子どもたちはこんな検査を受けているんですねえ」と私が言うと「大人なら少しずつ入れていけるけれど子どもの場合はパッと奥までいれるからね」と先生。私が子どもの頃こんな検査法が開発されていなくてよかった、としみじみ思いました。

  処方されたタミフルを飲み始めると、翌日から熱は下がりました。ただ、ひどく身体がだるくて、頭が回らなくて(ふだん回っているかといわれると・・?)食べたくない。人生から食べる楽しみがなくなったら、こんなに味気ないものか、と思いましたね。だいすきなコーヒーも飲みたくなくて、ほうじ茶や緑茶が飲みたい。ここはやっぱりおかゆに梅干しだなあと思ったとき、外国でのことがよみがえりました。

  フランスのノルマンディの友人の家にパリから遊びに行ったとき、急におなかが痛くなり何も食べられなくなりました。「スミコ、ブイヨンつくろうか?」とお母さんが心配して聞いてくれましたが、目に浮かぶのはとろっとした白いおかゆと梅干し。ふだんは日本食をなつかしいと思うこともなく(45年も前のパリの日本料理店といったら目の玉が飛び出るほど高くて、学生には縁のないところでしたし)、どんなものでもおいしく食べていたのに、です。

  体調が悪くなると日本人としてのおかゆDNAが立ち現われて、ひたすら「おかゆ」「おかゆさん」「梅干しも・・」と求め続けるのはわたくしがふるーい人間だからでしょうか。今の子どもたちが大きくなったら「ベーグル」なんて言うのでしょうか?  インフルエンザのぼーっとした頭で考えこんでしまいました。

Posted at 2014年05月13日 14時37分07秒  /  コメント( 0 )

(2014年4月)                  6年後

  保育園の卒園を祝う会の前日3月25日のお昼、玄関にブレザー姿の女子が並んでいました。
 卒園生が六小の卒業式のあと、家に帰る前に園に寄ってくれたのです。

6年前の3月26日(のしお保育園はずっとこの日を卒園の日としています。)「どんぐり」で証書を受け取り「大きくなったら○○になります」と言って卒園していった人たちが、すっかり大きくなっていました。担任だったYさんも加わって、保育園時代のこと、来なかった男子のこと、部活のことなど話がはずみました。ちっちゃい時の面影はそのままに、さすが中学生になるだけあって、みんなしっかりしていて6年間という歳月を感じました。Y保育士もこの間に毎年一緒に富士山に登っていた仲の良いお父さんが亡くなり、赤ちゃんがうまれて、お母さんになりました。そして卒園式の準備もたけなわになってきた午後3時、こんどは四小の男子と女子が卒業報告に来てくれました。六小グループが来たことを告げると「会いたかったなー」と残念がっていました。

男子ひとりでも女子と一緒に来てくれたKくん、雷が大嫌いで、年長になってもゴロっと鳴ると泣きだしていたのが「もうだいじょうぶ」と。それはよかったのですが、4人のうちひとりの女子の顔がどうしてもわかりません。もし豊玉第二保育園の園長をしている原口さんだったら、すぐに名前が出るはずなのに。なにしろ6歳で九州に引っ越していったS.Tくんが15年ぶりに訪ねてきたとき(突然ニット帽を目深にかぶって事務室の窓をコンコンとたたいた)、即座に「S.Tくんよね?!」とフルネームで叫んだ方ですから。でも、そのひとはのしおの卒園生ではなく幼稚園出身で、3人についてきたのだとわかり、ほっとしました。

翌日3月26日はよい天気の暖かい日で、ゆり組16人全員に卒園証書を渡すことができました。
今年は、大きくなったらパイロットになりたいひとがたくさんいましたが、まずは6年後に元気にそろって保育園に来てほしいと願っています。


 

Posted at 2014年04月01日 14時22分04秒  /  コメント( 0 )

(2014年3月)                   時速10キロ


 歩いて通勤しています。万歩計をつけて。
 歩いていると車でも自転車でも見えないものが見えます。
きのうまではチラホラだった梅林の花が、今朝は四分咲きというほどに開いていました。なんともよい香りが林の手前から漂ってきて、春だなあとうっとりしました。時速10kmの香りです。
 小学校の前を通るコースが静かで気に入っています。わが家から園までほぼ一直線、畑と民家がつづいています。このコースにはお店は一軒もないので、買い物をしなくてはいけない帰りみちは駅の前を通ることになります。西武線の秋津駅からJR新秋津駅までは“素通り商店街”とテレビにも出たくらい、いつもたくさんの人の群れが急いで歩く、というより移動しています。

 
のしお保育園が野塩5丁目にできて33年たちました。開園当時とは園の周りも駅前の風景もずいぶん変わりました。書店、オーダー紳士服の店、化粧品店、肉屋、魚屋・・みんな消えてしまい、かわりにチェーンの外食産業、ドラッグストア、コンビニ、マッサージの店がならびます。銀行(秋津でたった一つの!)は変わらずに同じところにありますが、昔は行員のひとが職員の給料を現金で届けてくれました。ついでにおしゃべりしたり、保育室に顔をだしたり。事務室に近い「つくし」のこども達と仲良くなった男性の行員が、転勤の前日「せめて寝顔だけでも」と廊下からお昼寝中の顔を見てお別れしていったことがありました。 振り込みはインターネットでできるようになり、銀行員ひとりの受け持ち範囲がずっと広くなったいまでは考えられないことです。

 
 赤ちゃんがお母さんのおなかにいる日数や、歩き始める月齢は大昔から変わっていないのに、こども達をとりまく環境のこの変わりかた! pm2.5という恐ろしいモノも出てきました。2月25日から27日の3日間で住民に注意喚起を行った道府県が延べ12団体に上りました。「これから春先は濃度の高くなる状況が予見される。濃度の高くなる日は幼稚園や保育園では屋内の運動に切り替えていただきたい」と環境相が言っています。私の徒歩出勤もどうなるのでしょう?

Posted at 2014年03月06日 10時21分58秒  /  コメント( 0 )

(2014年2月)                   呼び方について(続)

  園の事務室の前の廊下で、お迎えに来たおばあちゃん(この呼び方もむずかしいですねえ。わたしも孫を保育園に迎えに行って「おばあちゃん」と呼ばれると、一瞬、誰のこと?と思いますもの。ひとが年齢についてきちんと自覚するのは本当に難しい)に、園児が言い聞かせられていました。「 〜さんじゃないでしょ。教えてもらっているんだから先生ってよばなきゃダメでしょ」

  すみません、わたし達が「さん」で呼んでもらっているので、お孫さんのせいじゃないんです、と、よほど出ていこうかと思いました。ちょうど先月号の園だよりで「さん」でよいのか、書いたばかりの時でした。

あれから考え続けてきて、先に申し上げますと、まだ結論は出ていません。でも、いくつか大事なことを確認できました。

 それは、まず職員同士がお互いに「先生」と呼び合うのはおかしい、ということ。のしお保育園が1981年4月に開園したときに「さん」で呼ぼうと園長が呼びかけたのですが、なかなか浸透せず(年上のひとには「先生」、若い職員には「さん」と呼び分けるなどフクザツなことにもなったり)、18年前に保護者の皆さんに(もちろん職員にも)「さんと呼んでください」とお願いの文書をだしました。以来「さん」は定着しています(と思います。)

 33年前のしお保育園ができたとき、私は<小さいけれどもひとりの人間としての権利をもった子ども>を大切にする園でありたいと思いました。そのことを常に心にとめておくために子どもからも「さん」で呼んでもらいたいと思ったのです。ただ、子どもたちは<社会的にはまだ未熟で弱者として保護されなければならない>存在です。大人と上下関係はないけれど、対等ではない・・・この矛盾というか、むずかしさをいつも感じながら来ました。

 のしお保育園は<ひとりの人間としての子どもを大切にする>と同時に、これから社会で生きていく子どもたちに、ありとあらゆることを伝え、教える場でもあります。その自覚はしっかり持たなければいけません。まだ考えることがたくさんありそうです。

Posted at 2014年02月06日 15時54分12秒  /  コメント( 0 )

(2014年1月)                    呼び方について

何でも「赤毛のアン」からわたしは学んだのでした、ということは以前にも書きました。それに対し「わたしも」とコメントを頂いたりして、アン仲間は世界中にたくさんいるのだと知りました。

アンは私が直接知り合ったひとで、父経由ではありません。「あしながおじさん」のヂルーシャ(ジュディ)・アボットは父を通して親しくなりましたが、はじめのうちは彼女の話のレベルについていけなくて、一時つきあいがなくなりました。その後、再会したら、すごく話が合うようになり、いまでは彼女の親友のサリー・マクブライトとも仲良しです。サリーが施設長をしている児童養護施設が火事になったときは、それはびっくりしました。

─もちろんアンもジュディ―も19世紀の方たちですので、おつきあいといっても本のうえのことで、「あしながおじさん」は父の本棚にありました。ほかの本は難しそうな字ばかり並んでいたのに「あしながおじさん」は面白い挿絵入りで、7,8歳だったわたしは椅子によじのぼって本を取り出し読み始めたのですが・・さっぱりわかりませんでした。(あの時の情けない、はがゆい気持ちは今でも覚えています。)

アンが男の子と間違えられて孤児院からプリンスエドワード島に来たのは11歳でした。わたしが「赤毛のアン」を初めて読んだのも11歳。父の本棚ではなく、学校の図書室で見つけました。そばかすという共通点(唯一の?)で結ばれているわたし達。もうそれからは暗記するほどアンの物語を読んできました。

実は、のしお保育園での「呼び方」について考えております。大人同士も、こども達が大人を呼ぶときも「〜さん」で、職名では呼ばず、現にこのコーナーだって「純子さん」です。それがよいのだと思ってきましたが、果たして本当によいのだろうか。呼び方が意味するものをもっときちんと考えなければ、と思ったとき「赤毛のアン」の一節が浮かんできました。孤児院に返されるのでなく家に置いてもらえることになって、アンがマリラにおばさんとよんでもいいか尋ねるところです。「わたしはあんたのおばさんではない」から「みんなのようにマリラと呼んでおくれ」。アンは抵抗を感じながらも従います。(続) ─来月また続きを書くことにいたします。よく考えておきます。

Posted at 2014年01月10日 09時56分47秒  /  コメント( 0 )

(2013年12月)                  ルーティン

将棋の世界では有名な女流プロ棋士・石橋幸緒さんは、のしお保育園に1年だけ在園したことがあります。生まれながらに腸閉塞を患い、生後わずかしか生きられない、と言われ、清瀬小児病院に入院したまま3度の手術を受け、4歳まで口からものを食べたことはなかったそうです。保育園には「同年代のこども達といっしょに過ごす体験を」とのお母さんの願いがかない、年長の1年間をゆり組ですごしました。

さっちゃん(と呼んでいました)は8歳で偶然に秋津将棋教室(女流プロ棋士・後の師匠:清水市代さんの父親の経営する)に入門し、12歳でプロになり、18歳のとき、女流王将戦で4タイトルを独占していた師匠・清水市代さんからタイトルを奪取するというエライことを成し遂げたのでした。

LPSA(日本女子プロ将棋協会)の代表理事として活躍中の現在の姿から想像できないほど、園ではいつも静かなさっちゃんでした。卒園してから、彼女に「園生活でなにがいちばん思い出に残っている?」と尋ねたことがあります。答えは─「靴箱のところ」。当時、登降園は園庭の西門からでした。テラスから直接各部屋に入っていました。「保育園の靴箱の前でみんなとおしゃべりしていたら、楽しくて笑っちゃったのを覚えている」。ずっと病院と家にいたさっちゃんには、ほかの子には当たり前の<世間話をしながら脱いだ靴をテラスの靴箱にしまう>ことも、当たり前ゆえにすごく輝いてみえたのでしょう。

乳幼児期には、日々同じようにくり返される日常の決まったこと=ルーティンが大事だなと思います。そして子どもたちはルーティンが好きです。思わず笑っちゃうような楽しいルーティンに満ちた保育園でありたいと思います。



Posted at 2013年12月02日 15時35分23秒  /  コメント( 0 )

(2013年11月)               ばらとハラマキ

 「アンネのばら」をわけてもらうのは、抽選にはずれてしまって今年はだめでしたが、10月のなかば「父のばら」に会うことができました。といっても、家から保育園まで歩いてくる途中の植木溜め(植木屋さんが出荷まえのいろいろな植木を植えてあるところ)の道路寄りにひょろっと一本たっているばらのことなのですが。
 「薄いクリーム色のばらがいちばん好きだ」父が生前よく言っていたので、父のばら。 父は話しをするのが好きなひとでした。自分のこどものころの話から、家族のこと(8人兄弟の3番目だったので話すことはたくさんありました)、教員時代の思い出、初めて保育園を建てたときどんなにたいへんだったかナドナド、それはよく話してくれました。
思い返すと、母からは「〜が好き」という類のことは聞いたことがありません。年子の3人のこどもと幼稚園の仕事で毎日朝から晩まで忙しく、話も実際的具体的かつ心配的?で「お腹が冷えるといけないから毛糸のハラマキしなさいよ」といつも言っていました。ハラマキと聞くと母の顔がいまでも浮かびます。
母は今の私の年齢のとき急逝しました。本当は何の花が好きだったのか聞かないままでした。私も迷ってばかりいないで、もうきちんと好きな花を決めておかなければと思っています。

Posted at 2013年11月13日 10時30分58秒  /  コメント( 0 )

(2013年10月)              越生とブルキナファソ

「吉沢さんがテレビに出ていました、川も出てきました」
月曜日の朝、保育士のKさんからきいてびっくり。もうすぐ越生の吉沢さんの家で年長クラスのお泊りというときです。

日曜の夜のテレビ番組欄に<アフリカから来た一家が日本滞在>というのがあるなあ、とは思ったのですが、まさかそこに吉沢さんが出演とは! Kさんも、アフリカのブルキナファソという国から来た一家が越生に滞在、というので「ひょっとしたら」と思ったとおりに吉沢さんが現れ、川で一家が水遊びをして庭でバーべキューをする様子がうつったので驚いたといいます。

9月13日、まさにゆり組の“川遊びお泊り”のために涼しさをひっこめ、太陽を出し、台風を押しとどめておいてくれたとしか思えないどんぴしゃりの天気の日、行ってきました。 吉沢さんの「はなれ(朝日のあたる家)」の庭から直接降りられるおっぺ川はぜいたくなプライベート・リバーです。今年もブランコと蟹、魚が子ども達を待っていてくれました。

吉沢さんに初めて案内してもらったのは、プールのように石で水が囲われたちょっと深いところ。近づく子をつかまえてボンボンと投げ込んでくれるので、吉沢さんのまわりは歓声と水しぶきがいっぱいです。日曜日の台風18号を思うと金〜土のお泊まりは奇跡のような天候でした。
そうそう、ブルキナファソの一家は近くのお豆腐屋さんの家にホームステイしたそうです。なぜお豆腐屋さんかというと「同じテレビ局の番組に以前でたから」ということでした。(吉沢さんいわく「テレビってそんなもんだよ」)

とにかく遠く西アフリカからも遊びにくるインターナショナルな(?)川で思い切り遊んで今年のお泊まりも無事おわりました。一家もおうちに帰って今頃「オゴセおもしろかったネー」と話しているでしょうか。

Posted at 2013年10月07日 16時18分25秒  /  コメント( 0 )

(2013年9月)                   連絡帳は篭に入れて

 すみれ、れんげ、ゆり幼児3クラスの連絡帳入れが、それぞれのクラスカラーの素敵な篭になりました。といっても朝夕保育士が受け取り、お渡しするので、新装なった連絡帳入れを保護者の方にしみじみ見て頂く機会はあまりないのですが。

担任は、たっぷりしたサイズの、重くても大丈夫なように底が補強されている篭の取っ手を持って、保育室と「どんぐり」や「はらっぱ」をさっそうと(?)往復しております。

この連絡帳入れを作ってくれたのは卒園生の奈々子さんです。

今年の5月、野塩郵便局に行ったとき偶然手にしたタウン誌<ほのぼのマイタウン>に、若き漆工芸家として奈々子さんの記事が載っていました。彼女が練馬に工房を持って、工芸家として漆をはじめいろいろな素材で作品を作っていることを知り「あの奈々ちゃんが!」と驚いたり喜んだりしました。それから手紙と作品展の案内状が送られてきて、32年前の奈々ちゃんを知っている原口さん(現・練馬の委託園の園長)とふたりで四谷まで行ってきました。

展示されているカラフルなたくさんの篭のなかに立っている奈々子さんは、すっかり大人になって(そりゃそうですね。1981年にのしお保育園が開園したとき2歳だったのですから)、でも面影は昔のまま。「小中の義務教育はきつい感じがしたけれど保育園ののびのびした雰囲気は今のわたしの栄養になってます」と言ってくれました。(卒園したひとのそういう言葉がわたしの栄養になってまだなんとか続けていられます、ありがとう!)

そんな訳で、ほんとは漆で作ってほしかったけれど漆では青・赤・緑のクラスカラーが出ないのと、たいへんにオタカくなるので、クラフト・テープを編んで色を塗った特製連絡帳入れを奈々子さんに作ってもらいました。新しい篭の中にはいる連絡帳が、これからも園と家庭をしっかりつなげてくれますように・・。

Posted at 2013年09月19日 16時23分09秒  /  コメント( 0 )

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