社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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最終号 (2017年3月)         一生の基礎のできるとき

 特別養護老人ホームの生活指導員(なんという職名でしょう!)をしていました。

 開園したてで宣伝が行き届かなかったせいか、そもそも特別養護老人ホームとはどんなところなのか、当時はまだ広く知られていなかったので、毎日寮母さん達と園内を磨きながら入所者を待ちました。第一号の方がいらしたときは一度にに4人くらいの職員が付き、それこそ手取り足とりの介護(?)で「まあ、もったいないねえ、こんなにしてもらっちゃ」と感謝されました。すぐに50人定員がいっぱいになりましたけれど。

  20代の私(おお、まったく昔だ!)の祖父母の世代の方たちとホームで暮らした日々は6年余と長くはありませんでしたが、本当にたくさんのことを学びました。
専攻していたロシア文学の作家ゴーリキーの代表作が「私の大学」でした。若者が実際の大学ではなく、ロシアの貧しい暮らしのなかで身近な人たちから大切なことを学んでいく話で、この特別養護老人ホームの経験はまさに「私の大学」でした。

ホームの玄関を入ってすぐの事務所を「お帳場」と呼び「ちょっとお帳場にことわってくるわね」と言う粋な「お姐さん」、すごいヘビースモーカーの100歳近い女性は、たばこを喫いたいあまり、高いベッドから自力で降りて寮母室まで這って行き「たばこちょうだーい」と夜勤中の人を腰がぬけるほどびっくりさせたり、選挙になると「絶対に〇〇市民には選挙権を与えないでください!」と毎日怒りに燃えて訴えに来る人(必ず国会にそうさせます、というまで部屋に戻ってくれない。)─ これまで見たことのない高齢の方たちと毎日過ごしているうち、わかったのはどんな子ども時代を送ったかが人の一生を決めることでした。

 裕福だったか貧しかったかには関係なく、身近な人から愛情を受けて育った人は、乳幼児期に築いた人との信頼関係を一生持ち保ち続けられる。小さいときに可愛がられた人は、その後の人生を楽しく積極的に生きていく基礎がつくられる、ということを 特別養護老人ホームで目の当たりにした気がします。

 のしお保育園が設立されたとき、老人ホームで学んだことを精一杯活かして、子どもたちが愛されている実感を持ち、のびのび過ごせる園にしたいと願いました。

 36年間のしお保育園で子どもたちと過ごせて、とても幸せでした。どの子も家庭でいっぱい可愛がられ、園でも職員が一生懸命可愛がり、人が大好きで、いま流行りのことばで言えば“自己肯定感”の強い、失敗するけれどメゲない、好奇心旺盛なのしおの子どもたち。これからも見守りつづけていきますが、ひとまず園長は卒業します。ずっとこのコーナーを読んでくださってありがとうございました。

Posted at 2017年03月08日 11時23分36秒  /  コメント( 0 )

(2017年2月)               伝承の保育とパリ

もし20代前半にフランスで3年間暮らしていなかったら、日本では昔からどのように子どもを育てていたか、子育てに何が伝承されてきたのか、こんなに知りたいと思わなかったかも…もっと外国の保育を熱心に勉強していたのかな、と思います。

 時代というのも、大きかったと思います。日本円が1ドル360円、フランス・フランが1フラン70円、しかも海外に持って行けるドルは制限つき。インターネットもカードもなかった時代です。飛行機もいまのように北極経由のルートはなく、アンカレッジで1回とまって給油して、その間に日本人のおばちゃん達が売店でアメリカの化粧品や時計などを日本語で勧めてきたり、立ち食いうどんがあったり、ここは何処?という感じでした。

 初めてパリに向かうときは、一応大学でロシア文学を専攻した者として、横浜の大桟橋から船でハバロフスクに行き当時のソ連邦を鉄道、飛行機で横断、モスクワから北上しサンクトペテルブルクへ、そこからフィンランドに入り、あとはユーレイル・パスを使って北欧−ドイツと南下、パリ北駅に着いたときは余りに疲れていてよく覚えていません。

人種のるつぼのようなパリに、当時日本人は少数派でした。韓国政府から派遣された軍人の同級生は、姿勢がいつもピッとまっすぐで、瞳を輝かせて「朴大統領を心から尊敬しています」と言っていました。彼は、その娘が大統領になり、いま執務権限停止中というのを、生きていたらどう感じているでしょう。

何もわからずに始めたパリでの暮らしでしたが、それまで意識したことがなかった「日本人としての自分」を、ことあるごとに感じるようになりました。そして、日本のことをあまりに知らないのに愕然としました。自分の国の歴史や文化を知らずに、外国の言葉だけしゃべれるようになっても意味がない、と、それこそ堪能にスラスラとフランス語を操るひと達(フランス人だからあたりまえですね)のただなかで思い知ったのです。

この36年間、「自分の国の言葉、国語を大事にしよう」「昔からずっと伝えられてきた日本人の知恵を大事に保育していこう」と思い続けてきたのは、パリの体験がもとになっています。


園だよりが出ると、このコーナーに目を通していつも一言わたしに感想を述べてくださったシルバーの池田さんが、体調を崩されて退職されました。もうヒトコトが聞けないと思うと寂しいです。長い間ありがとうございました。

Posted at 2017年02月06日 08時34分32秒  /  コメント( 0 )

(2017年1月)            おーい、ゆうだいくん!

 ゆうだいくんは忍者でした。
 正確に言えば東京の西の端の市の野塩というところにある保育園にかよっていて、その保育園では皆が忍者の修行をしているクラスがありました。担任のおーさわせんせいが、元気な男の子が多いクラスをじーっと見ていて「この子たちには忍者だ!」と思った、のかどうかはわかりませんが、とにかくおでこに鉢巻をまいて園庭や散歩先で走り回っていました。もう25年近く前のことです。ゆうだいくんはその忍者組の一員でした。
 
 5月の遠足にはリュックをしょって電車で八国山に行くことになりました。鉢巻をきりりとまいて、宝物のあるところが書かれている巻物を持って、所沢で乗り換えのために降りたとき─なんと大事な巻物は車内に! 気づいて呆然としている皆の前を電車はスーッと通りすぎて行きました。

すっかり気落ちした忍者たちは地図なしで八国山を歩くことになり、「トトロがとどけてくれないかなー」とつぶやく子に「トトロなんかいねーよ!」とリアルな意見を言う子あり、集団のまとまりが欠けてきたときでした。みんなよりひと足先に道を確かめに行っていた引率のせんせいが「あそこに何かみえる」と木の根っこを指しました。おお、電車で行ってしまったはずの巻物とお菓子の「宝物」がありました。忍者たちは感激のあまり空に向かって
「トトロさーん、ありがとう!」と叫びました。「いねーよ」の子がいちばん大きな声で。

 皆さんにはもう一人の引率の人が怪しいとおわかりですね。あとでおーさわせんせいは、その人(実はわたしです)に「忍者の極意は味方をあざむくことと知りました」と述懐したものでした。

 そして今、おーさわせんせいもわたしも元気なのに、ゆうだいくんが11月に亡くなりました。まだ29歳でした。穏やかな、いつも周りの人を思いやる優しい性格で、卒園してからも忍者組の仲間たちはとても仲が良く、しょっちゅう集まっていたので、ゆうだいくんの消息も私たちに届いていました。2年半前、難しい病気になったと聞き、保育園の仲間がどんなに心配し、励まし、祈ってきたか・・。

 空に向かって「ゆうだいくーん」と呼ぶと、あの赤いほっぺの、はにかんで唇をちょっととがらせた彼が、笑いながら手を振ってくれる気がしてなりません。

Posted at 2017年01月06日 14時02分53秒  /  コメント( 0 )

(2016年12月)           オーストラリアに行ってみたい

  えがお先月号でオーストラリアの障害児教育について書くつもりが、京都祇園の「おばんさいの店」に入ってきたら「ノーイングリッシュ!」とお店のひとに押し出されそうになった外国人の夫婦(それがオーストラリア人でした)の話になりました。はやいものですね。1か月たち、その間に雪が降り、私はぎっくり腰になって、治り、しばらく会えないひとには「よいお年を!」という挨拶をする季節になりました。孫たちはアドヴェント・カレンダーが始まるのを楽しみにしています。彼らは何をサンタさんに、両親には、ジージとバーバは、とお願いの手紙を書くのに追われています。

あらあら、この調子ではまたオーストラリアが出てこないで年が変わってしまいそう。ぎっくり腰についても一言二言お話ししたいのですが(朝起きるときの痛さったらないですね!)やめます。


  ケリー・ジョンストンさんは10万坪の広大な敷地の中に3世代の家族と馬たちと暮らしています。当法人の理事長・津田望はロンドン大学の大学院で勉強しましたが、高校時代にオーストラリアに留学していました。ケリーさんとは長年の友人で、二人とも言語聴覚士と乗馬インストラクターの資格をもっています。

  今年、10月1日に社会福祉法人のゆり会のいちばん新しい施設として、児童発達支援センター
「のぞみ学園かめあり」(ハイ、「こち亀」の亀有です)が開園しました。そのお披露目(内覧会)も兼ねてケリーさんの講演がありました。

  お孫さんもたくさんいるケリーさんは今年、特殊教育学で学位を取得し、障害を持つ人たちの生涯発達について研究を開始されたそうです。えらいなあ。

  理事長の通訳で、2時間半の講演は思っていたよりどんどん時間が過ぎていきました。特に心を打たれたのは、障害児への教育の基本として 

        〇 障害をもつ児童への教育はそうでない児童たちと同じ権利をもつ
        〇 全ての児童は、教育のたのしみを得るべきである


と明記されていることです。望理事長は「楽しまない教育はない」とも訳しましたよ。そして、
サザンクロス学校の特別支援クラスでは、Focus on positive self image(前向きな自分像へ焦点を結ぶ)、積極的に行動し、ポジティブに自分を出すことが大事にされているそうです!
  
  オーストラリアにひきこもる子どもはいない。だから「ひきこもり」という言葉も存在しない、とケリーさんは言われました。どの子にとっても教育は楽しく受けるもの、という国と、『落第生学級』というのが最初の特別支援学級の名称(1890年長野・松本尋常小学校に設置)だった日本との違い・・・。オーストラリアに行ってみたくありませんか?ケリーさんの牧場で馬の背に揺られながら広い空を眺めてみたいです。

Posted at 2016年12月01日 17時02分48秒  /  コメント( 0 )

(2016年11月)                オーストラリア 

 それぞれ職種の違う友達4人で、毎年冬に京都に行っていたことがあります。だいぶ前で、京都にいまほど観光客があふれていなかったころです。瀬戸内寂聴さんが寂庵をひらいたばかりの時で、フラリと寄った私たちを手招きし「写真撮りたいでしょ!」と記念撮影を一緒にしてくださったくらいお元気でした。寂聴さんも私たちも若かった。
 
夜に祇園の有名なお茶屋さんの近くの、小さな京の家庭料理のお店にいくのが楽しみでした。菜っ葉と油揚げを炊いたの、とか、かぶら蒸し、が本当においしくて、畳にちゃぶ台の一等席に坐れるとほっとしました。どんどんお客が入ってきます。大柄な欧米人らしきカップルも入ってきました。とたんに、そろばんをもって階段の下に潜んでいた店の亭主が飛び出して来て「ノーイングリッシュ!」と叫んで二人を押し出そうとするではありませんか。なんでダメなのかという我々に「うちはメニューなんかないからガイジンさんは言葉通じんし困るんや」。自分がろくにしゃべれないのを忘れて「彼らが食べおわるまで一緒にいます!」とちゃぶ台に二人をお招きしてしまいました。
 オーストラリアから学会できた医師と大学教授のご夫婦で、たいへん分かりやすい英語で「近くを歩いていたらみんながこのお店に入っていくので、きっと安くておいしいのだろうと思って来た」ということでした。私たちの名イングリッシュ(?)にお店も引っ込み、思いがけない出会いに楽しい一夜となりました。

 10月29日(土)に日本総合的セラピー研究会(JaTTS)主催の「オーストラリアの特別支援教育について」〜保育園から高校まで〜 という研修がありました。会場は
この10月1日に開園した社会福祉法人のゆり会のいちばん新しい施設「のぞみ学園かめあり」で、講師のケリー・ジョンストンさんはニューサウスウエールズで広大な牧場の中に馬を飼い、乗馬セラピーを行い、多くの障害を持つ子ども達の治療に長年携わっている方。言語聴覚士で教育心理士でもあります。

 今回ケリーさんの講演を聴いて、オーストラリアという国の教育、文化、考え方について日本との違いにびっくりしました。私とオーストラリアはいままで京都のできごとしか接点がなかったので、そこから書き始めたら講演についてのスペースがなくなってしまいました。(かぶら蒸しなんか書いてたからですね。)すみません。次回に報告いたします。

Posted at 2016年11月02日 13時50分36秒  /  コメント( 0 )

(2016年10月)             サリドマイド事件・50年

 結婚して姓はSさんになっておられますが、保育園で呼び慣れていたIさんとどうしても言ってしまいます。36年前、そう、のしお(当時は野塩)保育園が限りなく東村山市に近い清瀬市内に誕生したときの初代保育士(当時は保母が正式名称でした。男性でも保母。)のひとりがIさんでした。短大を出たての20歳。同期のFさんは、現在、法人に委託された練馬の園の副園長をしていますが、わたしが「新卒でここに就職して36年」と言うと「年がわかるじゃないですか!」と抗議されます。ほんとに長い年月がたったのですねえ。

 Iさんは6年前に<20歳以上集まれ!!>と卒園生に呼びかけて園で開いた同窓会(のようなもの)に富山から参加してくれました。高校生、大学生の男の子3人の母になっていました。
Iさんが「のしお」で働いていた10年間(1981年〜91年)は保育園の創設期、なにしろ民間保育園は市内で二つしかなったころでした。

 ある日、お昼寝の時間にバリバリという音とともに空から霰(アラレ)が降ってきました。洗面器をもって園庭に「こどもたちにみせたーい!」と真っ先に飛び出してきたのがIさん。その姿を見たお母さんが連絡帳に「この保育園に預けてよかった」と書いて下さり、どんなに私たちは励まされたことか。

 録画しておいたビデオを昨夜、家でみていました。「ベストテレビ2016」という、この1年間、国内の代表的なテレビ番組コンクールで最高賞を受賞したドキュメンタリー番組をNHKと民放の垣根を越えて放送したしたものです。「薬禍の歳月〜サリドマイド事件50年〜」がNHKのETV特集で放送され、文化庁芸術祭賞ドキュメンタリー部門の大賞をとった作品として紹介されました。Iさんはサリドマイド薬害事件の被害者でした。

 もしかしたら、と画面にIさんの姿を探していたら突然、東京の大学で薬学を勉強しているIさんの長男が映りました。母さんとサリドマイドのことを話したことがなかった、聴かせてほしいという息子さんにIさんが話したこと・・・ぜひ、ビデオをみてください。車の運転が上手く、ピアノをよく弾く、明るいIさんと、考えてみればわたしも薬害や障害について深く話したことがありませんでした。会いたいです。

Posted at 2016年10月14日 09時56分56秒  /  コメント( 0 )

(2016年9月)             「あのねー」

 この夏、親戚のこどもとおしゃべりしました。
 離れていて普段はなかなか会えないので、会うたびにびっくりするほど大きくなっています。初めて会った赤ちゃんのときは、すごい声で泣き続けていました。その家には初孫でしたので、おじいちゃんにおばあちゃん、おばちゃんにお母さん、みんなオロオロしていましたっけ。

 今回、その子も保育園の年中組。背も伸び、いっぱしの口をきく、なかなかの男の子になっていました。
「オレさー」と彼はちょっと真面目な口調でわたしに話してきました。「ほいくえんの〇〇ちゃん、にがてなんだ」「オレがいやなこというとお腹にパンチしてさ、ダレニモイウナっていうから」(自分が相手のあたまにくるようなこと先に言ったと自覚しているな)、「でもすごく痛いんだ、〇〇ちゃんは力が強いんだよ」。
「それと△△せんせい、こわいよ。わるいことすると手をぎゅーっとつかむ」(おっ、
これは仕事上聞き捨てならないな)「怒ってばかりいるから△△せんせい、こわいよ」。
「そうか、生まれて4年たつと悩みもでてくるんだね。せんせいは貴方よりずっと大きくて力が強いから腕をぎゅーとつかんだりしちゃいけないな。のしお保育園のセンセイたちはそういうことはしないよ。」と話しながら、彼の通う保育園でもこのことをちゃんと取り上げて職員皆で話し合ってほしいと強く思いました。
 
 次に会えるときは小学生になっているかもしれません。きっと悩みはもっと大きく複雑になっているでしょう。わたしにもう話してくれることはないかも。だから△△せんせいの「ぎゅー」については、保育園や保育士のありかたについて、もっと大人が考えてよ、と宿題を出された気持ちでおります。

Posted at 2016年09月05日 14時02分01秒  /  コメント( 0 )

(2016年8月)               Rrrr・・・

 実は私、英語─というより外国語全般が大好きです。本が好きで外国語が好きで、大学は文学部外国文学科でロシア文学を専攻しました。広大な大地にあこがれ、トルストイをはじめ、かの地の深く厚みのある文学にあこがれて決めたのですが、ロシア語のRを巻き舌でルルルと発音するのが私にはどうしてもできない、と分かったときにきっぱりあきらめました。いや、発音よりもロシアそのものの重厚さの方に「向かない」と思ったのかもしれません。それなら受験の前に考えておけばよかったのに・・・人の性格って変わりませんね。走り出してからアレと?気づくのは今も、です。 

 とにかく、ロシア語からもブンガクからも離れた私は、大学を卒業してからフランスに行き、フランス語の勉強をし、20代前半の3年間のパリでの暮らしとは、ヘミングウエイ言うところの<若い時パリで暮らした人は幸せだ。なぜならパリは移動祝祭日として一生その人について回るから。>のとおり、たのしい関係を保っています。

 しかしフランス語にもあったのですよ、日本人泣かせのRが! 巻き舌ではなく喉から絞り出すヤツで、コーラの入ったコップをもって並んで、一口含んで喉にためて、「飲み込まないで音をたてて、さあウガーイ!」と先生の指導のもとみんなで廊下でガラガラやっているうちles Rues de Paris(レ ュー ド パ─斜めはウガイ発音)もなんとかそれらしく言えるようになりました。

 7月26日に日本の相模原の施設で19名もの障害者が殺される事件のあった同じ日、フランス北部のルーアン近郊の教会で人質の神父が殺され、仏政府はISの犯行として非常事態宣言を六か月延長しました。

 昨今の世界で相次ぐテロと相模原の事件はヘイトクライム(憎悪犯罪)という点では本質は同じではないかと思います。どうして世界中こんなに憎しみが蔓延することになったのでしょうか。
昔「向かない」と思いながら読んだドストエフスキーの小説が昨今は身に染みます。

Posted at 2016年08月02日 09時03分22秒  /  コメント( 0 )

(2016年7月)                   日本の食事

 3歳クラスから保育参観には給食の試食があります。午前中、クラスの活動が散歩でしたら一緒に散歩に行き、園庭でのおにごっこでしたら一緒に走って、昼食も試食として一緒に食べて、担任と個人面談のあと一緒に帰る─のが幼児3クラスの参観の日のスケジュールです。
いちおう1日ひとりの方となっていますので、メドとしてはお子さんの誕生月ころに予定を早めにたててくださるようお願いしています。お仕事の都合で何か月も遅くなることもありますが、子どもたちは特別な日として楽しみにしています。

当日はキッチンから保護者の方に「感想を一言」のアンケートの紙が渡されます。書いてくださる「おいしかった」「丁寧にだしがとってあって感激」「「家ではこんなに手をかけられない」等々のおほめの言葉がスタッフにはなによりのエネルギー源です。夏は灼熱のサハラ砂漠にいるようなキッチン(冬は底冷えがひどくシベリアのように寒い!)で朝早くから煮たり焼いたり刻んだり、汗をかくので服を途中で着替えながら、包丁片手にがんばれるのも皆さんの感想のおかげです。
こう書くと、ほめなければいけないと思われるかもしれませんね。誰でもほめてもらうのは嬉しいのですが、気づかれたことを率直に言っていただくのも有り難く、勉強になるので、ぜひお願いします。がっかりして気力を失うほどのヤワなキッチンではありません。

それにしても日本のいまの食事は、ほかの国にくらべると多様性に富んでいて、手がこんでいると思います。フランスの施設ではフランスの料理しか作りませんから、実にシンプルでした。星のつくレストランの料理は「レストラン料理」であって、日常家で食べたり給食に出るのは昔から食べ続けている伝統的な質素な食事でした。
のしお保育園の給食はごはんと味噌汁と決まっていますが、おかずは和風・中華風・インド風となんでもござれです。これがつまり日本の食事という訳で。
食事に表れている日本という国の特性について考えていくと、いろいろなことが浮かんできます。
私は典型的な日本人として、美味しい変化に富んだ食事が大好きです。

Posted at 2016年07月08日 09時56分03秒  /  コメント( 0 )

(2016年6月)             アンネのバラが咲きました


 「バラ園見学に行ってきまーす」
れんげ・ゆり2クラスが散歩に出ていきました。
空は青く風はさわやか、暑くもなく寒くもなく、シャンソンの「五月のパリが好き」(いろいろな歌手が歌っていますけれどアズナブールがいいですね。アズナブールといえば90歳を過ぎて今年来日するそう。最後の日本というのでコンサートのチケットの高いこと!あ、バラのはなしでした。アズナブール好きですが。)の一節も口ずさみたくなる日です。
 のしお保育園の卒園生でもあるMさんがお母さんといっしょにバラ園を始め、市報にも大きく載りました。保育園のすぐ近くに素敵な散歩コースができました。
西武線の電車にも<バラとガーデニングショー>の大きな広告が。まさにバラの季節です。
 
子どもたちが散歩に行って静かな園庭に、ひっそりと今年もアンネのバラが咲いています。茨城のキリスト教学園が育てた苗を分けてもらって豊玉第二保育園が育てた(のしおは抽選にもれてしまった)のを分けてもらい、大切にしてきたアンネのバラです。
 本を読んだとき12歳だった私には、なぜユダヤ人がユダヤ人だという理由で収容所に入れられ、殺されたのか、わかりませんでした。今でも考え続けています。

中学1年のときに初めてアンネの日記を読み、ほぼ同じ年で隠れ家に家族とひそむことになったアンネのことを知りました。小学校時代は東京の端、川ひとつ向こうは千葉県というのんびりした町で育った私には、第二次大戦もホロコーストも突然アンネといっしょにやってきた、理解できない、恐ろしいものでした。
「津田さん(旧姓です)は学校でいつもアンネの日記のことを話していたから」と、茨城に住んでいる元同級生がアンネのバラの新聞記事をファックスで送ってくれたのが3年前の5月。昨年からのしお保育園で花が見られるようになりました。
もし、生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現するという<蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ>変色するバラを眺めていると、アンネの遺した言葉がよみがえります。

   もし、神さまが私を長生きさせてくださるのなら、私は社会に出て、
   人類のために働きたいのです。               
                             ─アンネ・フランク


 
 

Posted at 2016年06月07日 16時04分36秒  /  コメント( 0 )

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