社会福祉法人のゆり会 のしお保育園は清瀬市西部に位置し、0歳児からの未就学児童を都営住宅の一階にある保育園で、お家と同じようにゆったりと健やかに育てます。
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(2015年5月)             金町と松谷さんのこと

私が育ったのは葛飾柴又帝釈天まで江戸川の土手(どて)つたいに歩けば10分ほどの金町というところです。その町に1946年にできたのが金町保育園、わが実家です。

戦争が終わった直後のことで、現在から考えられないくらい何もかも無い時代でした。テレビも、冷蔵庫も、車も、洗濯機も、食料も、着るものも、なかった。特になかったのが住むところでした。戦災孤児たち(いまワードでセンサイと打ち込んだら“繊細”がでてきました。戦争は遠くなってしまったのですねえ。)が浮浪児と呼ばれて、上野の地下道で暮らしていました。児童施設や児童福祉法がまだなかった時代です。

どんなにバラック建てであっても保育園は、一応雨露しのげる空間があります。そこをめがけて、様々な人や団体がやってきました。一時は小学校の用務員のおじさんがいました。玄関を入ってすぐの保育室に布団を敷いて寝て、朝早く学校に出勤していました。それがある日、校長先生と教頭先生が父のところに来ていて(PTAの会長だったので相談があったのでしょう)、帰りがおじさんの就寝中になりました。二階から降りてくる足音や話し声で事態を察したおじさんは・・・とっさに手ぬぐいを顔にかけたんだよ、と後で父が繰り返し言い、気転がきくねえ、と感心していました。自分たちのプライバシーなんて考えず、困っているひとに寝場所を提供し続けた父と母でした。

松谷みよ子さんは実家の近くで人形劇団を主宰していました。早朝仕事に出かけるときには、まだ小さかった長女のたくみさんとお弁当箱(朝食用)を私たち家族の腕に押し込むようにして走って行かれました。

夜や日曜日には園のホールが劇団の稽古場になり、演出をしている松谷さんのおつれあいに電話がかかってくると、二階の自宅から下まで呼びに行くのが私の役目でした。よくも固定電話ひとつだけですべての用事が足りていたものと、今はびっくりします。

のしお保育園に講演に来てくださいませんか、とお電話したとき「金町保育園でたいへんお世話になったから(私ではなく父母ですけれど)、行かない訳にはいきません」とお忙しい中を秋津まで来てくださった松谷さん。 2月末に89歳で亡くなられました。松谷さんと一緒に私の金町時代の日々も、はるかかなたになってしまった気がします。 

                                     

Posted at 2015年05月01日 16時17分58秒

 
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