赤坂ときめき工房は、お着物や和装の装飾品の販売だけでなく、着付け教室・ヘアメイク教室も運営しております。
2010-06 の記事

ときめきのオモシロ歴...

帯とその結び方の始まり







日本の帯は、はじめは幅の狭い細帯を前結びにしていました。これは、埴輪が全部そうですし、高松塚古墳の女性も細帯を前に結んでいました。
それが、袴をはきだしてから、帯が見えなくなってしまうのです。そのために女性は下帯になり、上から見えない白無地の帯にかわります。
 さて、この帯が、桃山時代から女性が袴をはかなくなると表面に出てきます。そうすると、細帯を巻いていたのでは、日本女性の胴のプロポーションが非常に悪いものですから、まとまりがつかないのです。そんな時、秀吉が文禄の役で、肥前の国・名護屋城を本拠に朝鮮を責め始める。それにつれて、名護屋城の周りにたくさんの遊女が集まってきます。その遊女たちが、中国文化の影響を受けて立兵庫という大きな髷を結っているのですが、大長小袖を着た上に、細帯のかわりに丸打ちの縄帯をぐるぐる巻きにして右斜め前で結んでいたらしいのです。これは、南蛮人の宣教師がガウンの上から帯帯を幾重にも巻いているのを見て、そっくりまねをしたことによります。これが当時非常にモダンでハイカラに見えたらしい。これに飛びついたのが出雲阿国です。阿国はその風俗をまるごととり入れ、四条河原で歌舞伎をやり、たいへんな人気を集めます。それというのも、この名護屋帯という丸打ちの紐をぐるぐる巻きにしたのが原因です。
 これが、日本の帯が何回も重ね巻きするもとになったのです。世界広しといえども、ベルトやバンドを二重以上に巻く民族はないのです。これが大きな特徴のひとつ。
 やがて寛永十三年にキリシタン禁制の政策が打ち出されます。当時、名護屋帯を巻いていた人はたいてい首からクルスをさげ、南蛮風俗をしていました。ガラシャ夫人だけでなく、また信仰とも関係なく、一種のアクセサリーとしてやっていたのです。それがキリシタン禁制になったものだから、クルスも取ると同時に名護屋帯もやめてしまう。そして、名護屋帯を締めた時の幅に当たる厚板帯を考えだすのです。これが世にいう博多帯です。したがって、博多帯の模様は必ず横に平行線に並んでいます。名護屋帯を重ね巻きした影響が残ったわけで、それがいまも続いているということなのです。
 さて、元禄年間になると、だんだん生活が豊かになり、帯の幅が五寸、六寸と広がっていきます。そして裏地をつける。つまり裏打ちの帯になってくるのです。そうすると、いままでのように身体の前で結べなくなってきました。結び目が非常に大きくなり、足もとが見えないからです。これでは労働にもさしつかえるわけで、やがて結び目をうしろに回すことになりました。実はまた、この帯をうしろで結ぶのが世界じゅうで日本だけなのです。   今日ある日本の帯が、重ね巻きでうしろ結びなのは、以上のような変遷の結果として原体が形づくられたことによるのです。 


Posted at 2010年06月06日 22時47分01秒