
普通の人(秋葉原無差別殺傷事件について)
先日秋葉原で起きた無差別殺傷事件は、日本を震撼させ、ネタ集めに苦労しているマスコミばかりを喜ばせているようです。
皮肉にも犯人の意図したとおり、ニュースやワイドショーは連日このニュースを取り上げ、さまざまな専門家をそろえてもっともらしいことを述べようと躍起になっています。
こういった事件が起きるとあいもかわらずマスコミは、犯人がいかに普通とかけ離れていて異常であったか、という一面的な見方でもって攻撃し、自分たち側の固定した考えを擁護するかたちで番組が作られるので、見ているこちら側は鼻白んでしまいます。
果たして、彼はそんなに異常だったのでしょうか。
報道されている彼の経歴をみて、わたしに似ていると思いました。
県内で有名な進学高校に進んだという彼は、そこではじめて挫折を覚えたと報道されています。
いまのわたしだけを知っている人はまさかと思うでしょうが、わたしも進学校といわれている高校に進み、順風満帆にいったと親が安心したところ、生きることの虚しさや、ある種の虚無を感じて、ひきこもりになってしまいました。
また、ちょうど自分の体が大人に変化していく途上で、外に出ると欲望でギラギラした男性の視線ばかりを意識し、彼らに対する恐怖感や嫌悪感が増して外に出られなかったのです。
部屋に閉じこもって世の中の中年・壮年男性を抹殺する方法はないかと、一時真剣に考えていたほどです。
―しかし、わたしは行動に移しませんでした。それが彼との違いです。
部屋に閉じこもり、鬱屈した中さまざまに考えを巡らしていくと、蒸気の出口を封じられた圧力鍋がどんどん鍋の中で圧力が増していくように、思いは途方もなく肥大化していくものです。
昼夜逆転した生活でほとんど部屋から出ることのなかったわたしは、一方はそのような暗いことを考え、もう一方は女性的なものに成長していく自分の身体と思いを表現したいと、鏡の前で歌を唄ったり、一人パフォーマンスをしていたのです。
そして、3ヶ月後ある芸能事務所のオーディションを受けて芝居の道に入っていき、わたしの圧力鍋は爆発することなくすみました。
秋葉原の犯人は、事件の前から携帯サイトで自分の思いを書いていたと報道されています。
容姿に関するコンプレックスや、雇用の問題、社会的地位に対する不満が淡々と述べられていたそうです。
彼も人とつながりたいという思いがあり、その中で自分を表現していきたかったのではないでしょうか。
だからといって、彼の行動は決して許されないのですが、サバイバルナイフの購入を規制しようとか、レンタカーに関して見直そうとか、そういったやり方では、なにも本質的な問題に肉迫していないでしょう。
彼が抱えており、凶行に至らしめた価値観をひとりひとりが見直すことこそ、やるべきことではないでしょうか。
「エリート校出身で容姿が優れていて高い給与の仕事」=「勝ち組」といった図式が無反省に受け入れられている、それこそ今回の事件以上に異常な怖いことなのかもしれません。
その価値観を一度疑ってみることです。
わたしは高校を退学して、自分自身の価値観で生きたいと決意しました。
それには、ずいぶんなリスクがありましたが、盲目的に与えられた価値に従うより、自分自身で築いていった価値の方がどれだけ自分にとって真実となり、力になるのか身をもって経験してきました。
もっともいまでも、社会的通念や価値観を無自覚に受け入れてしまっていたり、翻弄されることがしばしばあります。
この事件の犯人は、現在の日本の社会とそこに生きる普通の人々の一面を映し出している、鏡のような役割を果たしているのかもしれません。
Posted at 2008年06月10日 16時02分20秒
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