WHAT'S NEW

さて、続きです。上海の生活状況を書きます。
ちょっと長いので、何回かに分けます。
それでは、わくわくスタート!!
上海での生活が4、5か月ぐらいたち、店も落ち着き、
中国語(北京語)も多少なりに会話ができ
(バンクーバーでの経験があるからこそ、と思うが)、
慣れてきたころ、自分の人生をど派手に変える、
上海大事件が起こります。
まずはここでどんな人間が内の会社で働いていたのかを伝えます。
社長は10年近く上海に住んでいる、当時30半ばの日本人。
2店舗の飲食店オーナーで現場社員が自分を含め日本人3人。
自社で財務、計理、総務のすべてを雇用(全員、現地人)。
日本ではありえない環境。2店舗オーナーで、現場以外の人間が、
ざっと社長を含め、6,7人(定かではない)。
それでは、現場人数が少ないのかと思えば、
今までの自分の飲食経験上、1.5倍は多い。
ならば、大繁盛店かと思えば、お世辞でも、繁盛店とはいえない。
不思議な状況でした。入社した後に知ったのですが、
自分達、日本人以外のスタッフは18歳〜24,25歳ぐらいまでの
若者だけ。しかも全員地方からの、出稼ぎ。
上海は中国13億の出稼ぎの都市だったのだ。
給料は自分の7分の1。日本円にして2万からよくて3万円。
それでも田舎で働くよりは多いという。
確かに物価はまだまだ日本よりは安いが、その少ない給料から、
親に仕送りをして、自分達を食べさせている現実。
正直ありえない環境がそこにはあった。
余談ではあるが彼らが日常食べている物を自分は上海に
居る間に3回チャレンジした。もともと体は弱い方だが、
3回とも見事にお腹を壊した。内1回は、1週間動けず、
命の危険も感じた(笑)。13億の人口の出稼ぎだ。
いくらでも、人はいる。地方より少し多い給料で良いのだ。
会社的には。そこで初めて、経営上、不便がないことを知ります。
つまり大事件と言うのはスタッフが、
僕を食事に誘ってくれたことです。僕は正直、びっくりしました。
良く、話を聞いてみると、スタッフ全員で月一回、
みんなで少しずつ、お金をだしあって、食材とビールを買付、
みんなで作って、食べると、言う。
「わかった。行くよ」。
そして当日、仕事終わりに、みんなで寮に自転車で向かいました。
自分も寮暮らしだったので、自分の家の方かと思いきや、
全く違う方向に向かったのです。自分の寮は本当に凄まじくて、
最初は住めるのかものすごく不安だったのを覚えてます。
みんなで自転車で向かった先、街頭もなくなり、あたりは真っ暗。
10時までの店だったので11時は軽く過ぎていました。
もー本当に怖くて怖くて。そしたらポツンと目の前に建物が。
そこに近づいていくと、それは、団地の一棟だけがそこにありました。
しかも良く見るとコンクリむき出しも、
どー見ても工事中みたいな、、、、
そして、次回は大事件のその時です。(笑)
寮の全貌を明かします。お楽しみにーーー!!
Posted at 2009年02月19日 01時49分19秒
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ご無沙汰さまです。
なかなか更新できなくて、、、、
言い訳(笑)としては、メニュー変えで
パンパンでした!!
まーなんと、情けない!!!
結構、自分のキャパの小ささを感じましたねー
なにはともあれ、、、、無事、メニュー変えできました。
今回は大幅にメニュー構成を変え、ブックも新調しました。
とりあえず、やったーーー!!ってことで、
連載の続きは、明日、アップします。
合言葉は、チャ―――ンス!!
Posted at 2009年02月19日 01時46分50秒
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だいぶ遅れましたが
あけましておめでとうございます。
正月あけてからほとんど、お店に入ってました。
ここ2,3か月、お店に入ってなかったので
ものすごく充実した、10日でした。
とりあえず、3月までは、びっしり
お店に出るので、、、もーーー
最高!!!!!
やっぱり、お店に出てるのがいいよねーーー
楽しいぜぃ
だけど、ちょっと筋肉痛!!(笑)
飲食12年目で、2,3か月離れるだけでこれとは、、、
情けない、、、、、イタタタ
早く、体を慣らさなくては、、、、汗
Posted at 2009年01月13日 00時19分47秒
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さてさて、夢が見つかり、走り始めます。
ただ、矢野潤一郎は、失敗や挫折の連続犯なんですね。
容量が悪く、ダメダメな事がばっかりなんです。
しかし、そんな過去があるから、今があるんですよね。
それでは、続きのスタート!!
夢。それは、飲食でやっていくという決意。
と、同時に店を出したいという夢。
そこからが自分の人生にスピード感が出ました。
目標があると、その目標に対して、成りたい自分に対して、
足りないものが見えてきました。後はそれに猛突進。
料理、サービス、経営学。独学で学びながら、
いつも横にいた先輩からいろいろ盗みまくっていました。
って言うより、怒られっぱなしの毎日(笑)。
言い訳ですが、決意が固まると、あれもやりたい、
これもやりたい症候群みたいな、、、、挑戦したいから
挑戦するから失敗する。失敗するから学ぶ、、、の繰り返し。
後からわかったのだが、成功の反対は失敗ではなく、
なにもしないこと。失敗は成功へのステップ。
当時はそんな事わからず、
失敗に怯えて挑戦ができなくなったこともしばしば(笑)、、、
そんな自分を根気よく面倒見てくれた、先輩達に大感謝です。
21歳で夢を持ち、3年間飲食漬けの毎日。24歳で、
すべてをまかしてもらえるようになっていました。
これで店が持てる自信が付きました。そして、
出店の場所を模索し始めます。もっともっと色々な経験をしたくて、
好奇心旺盛な自分は、上海に行くチャンスが訪れました。
知り合いの紹介で上海で働ける環境ができました。
「うん。面白そう」。ただそれだけで、上海に。
1年と言う自分との契約のもと上海行きを決意。
上海での出店も視野にいれながら、、、、、
カナダも行けたし、世界の上海。英語が通じないわけがない、
と、たかをくくっていました。甘すぎました。
自分がイメージしていた上海はほんの一部で
全く想像していなかった世界が、そこにありました。
そしてそんな上海での生活で、いろいろな方向性がきまりました。
言葉が分からず、ひまだったので、
日本書店で買った本を読みまくっていたら、
影響されることがいっぱいありまして、、、
「目標の明確化」、「夢の期限設定」。
まず、具体的にどこでどんな、お店をやるのか?
事業計画書をしっかりと書き始めました。そして、期限。
2007年の6月。日本に店を出す。上海にも日本の食材が
ふんだんにあったのですが、自分の第2の故郷、カナダ、
バンクーバーには日本の食材が少ない。バンクーバーを出て、
あらためて知ったこと。
すごく日本飲食店があるバンクーバーに対しての食材業者の少なさ。
需要と供給のバランスがとても悪い状態。
だから自分が日本に行き、日本の業者を巻き込んで
バンクーバーに営業所を作ってもらうことを働きかけること。
そんな風に夢を明確化にしていきました。
新しい場所で、メケメケにやられて、その中に、いっぱい
学びがあって、具体的に自分人生、考える事ができた上海時代。
そして、この上海での一年が、自分人生を大きく変化した次期。
ものすごく、自分が成長させてもらえた、と言うか、
自分をしっかりと見直し、生きるための使命みたいなものが
自分の中に生まれました。
そんな、強烈な上海の生活は次回、書きまーーーす。
ありがとうございまーーす。
Posted at 2008年12月31日 01時01分10秒
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さてさて、続きです。
今日は、自分の人生が飛躍的に変化を遂げた瞬間までです。
その後、いっぱい変化をしていくのですが、
この一歩がなければ、なにも始まらなかったことです。
それでは、行ってみましょう。
結局、学校最後の年、卒業間際で、家を出る、決意をします。
その裏付けは、カナダの教育方針にありました。自由奔放、
なんでもありの学校生活で、自分の方針、方向を最後の年には、
周りはみんな決まっていました。
「なになにを勉強したいからから大学にいく」とか、
「親の仕事を継ぐ」とか、
「この道に進みたいからこの専門学校」とか。
僕だけ、決まってませんでした。「このままじゃいかん!!」
そう思った自分は「親の元で住んでいる事が甘い。」
と、考え17歳で、家を飛び出しました。夢の一人暮らし。
希望に満ちあふれワクワクドキドキ。でも、やっぱり甘くない。
掃除、洗濯を全くやったことのない「どーん!!」一週間で、
ホームシック。そして、無計画で飛び出たので
つぎの月の家賃が払えない。まずは仕事だと思い、
日本のすし屋に雇ってもらいます。不純な動機。
お金がなくて、日本語が使える、メリットと賄が食べれることで
飲食に行きました。メチャクチャな生活。
仕事はやらされ感、たらたら。生活もやっと、何とかなる感じ。
そんな生活がいやで、職場で問題をおこし職を転々とします。
「何かしたい」。
こんな思いが溜まって、でた答えが、
「お金があれば何でもできる」でした。
そして、また不純な動機で、当時バンクーバーで一番はやっていた、
居酒屋に働かしてもらえるように頼む。アホですねー。
はやっている=儲かっている=給料がいい。
みたいな方程式が自分にあって、「ここで働けば、稼げるわー」
みたいな。その店は、それはもう忙しくて、大変で、
一瞬で辞めたくなってました。どんだけ忙しいかというと、
お皿洗いながらアニメソングをうたってしまうぐらい、、、(笑)
ただ、そこで働いている人がみんなかっこよくて、、、、
一人の強烈な先輩に出会います。中村文昭さんがいっていたように、「出逢いで人は変わる」と、そして「人生の師匠を見つけろ」と。
その先輩に会い、自分は変わりました。
飲食が楽しくなって、そして仕事に誇りが持てるようになりました。
そしてなにより
「夢」がもてました。
そーなんです。「夢」ができました。
まだまだ、ちーさな夢で、どーしょもなかった事ですが、
夢があると、人は決意して、覚悟が決まる。
やっている事や仕事は変わらないのに、景色が
変わりました。次回は、その変ったことを
具体的にかきまーーーす。
Posted at 2008年12月22日 23時21分41秒
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続きでーす。
またまた、熱く書いちゃいそーでこわい、、、、(笑)
また長くなりそうですけど読んでくださーい!!
夏休みから始まったカナダ生活。荷物を出し、部屋を整理。
楽しいなー。しかしそれも終わり、チョー暇に。
あ、俺、友達いないやー。。。。早く9月になれ。
(向こうは、9月が新学期)学校が始まれば、、、、、
そして初日、始業式も何も無く、手渡されたのは紙切れ一枚。
あとからわかるのだが、向こうの、義務教育スタイルは、
小学校7年生、中高校で5年となっている。
自分はこの中高の5年校の頭から入学したのだ。
義務教育といえでも、自主退学ができ、
教育方針が驚くぐらい日本のそれとは違っていた。
一言でいえば、自立型人間を育てる方針。
5年校が始まる所から、一人の男、一人の女として扱わられる。
授業中、ご飯を食べているヤツもいればヘッドフォンで
音楽を聴いているヤツ。もちろん授業に来てないヤツも、、、、
選択授業制でクラス感もない教室。
正直、日本の学校からきた僕にはわけが分からなかった。
つまり始業式などないのである。遅刻から始まり、
遅刻したことに落ち込む自分。(実際はだれもきにしていない)
何よりも、一番、苦だったのが、言葉の壁。当時の中一レベル。
しかもカナダ行きを決意していた、
だけに小4からろくに勉強した覚えがない。
毎日が苦痛の連続。授業はわからず、誰とも話せない。
もちろん友達はできず。家と学校の往復の毎日。
ほとんど、引きこもりでした。体育座りで、
ボーとわかりもしないテレビを見てる毎日。
「学校は楽しい」と、親が言うと。「う、、うん。楽しいよ」と、
プライドからか変な嘘をついたり、、、
用もないのに、出かけてみたり。
だけどそんな事を3か月も繰り返すと、
聞き取れるようになってきます。そうすると、いろんなことが、
わかってきます。授業も数学とか体育は
ついて行けるようになるのですが、生徒達が話している内容も少し
わかってきます。「なんだ!?あのイエロー」とか、
僕の悪口を言っているんですね。わかるだけにつらい毎日。
カナダは多国籍国家といっても、
自分がいた田舎の学校では英語が喋れない人が少なく、
日本人は自分だけでした。自分の想いを伝える事が出来ない自分が
とった行動は、、、、、暴力。一人殴れば、3,4人でボコボコ。
学校が嫌いになり、抜けがら状態。
そんな自分が何とかなったきっかけが昼休みのバスケ。
楽しそうにバスケをしている所をボケーと見てたら、
「一緒にやるか」と、声をかけてくれる奴が、、、
ルールも分からず夢中でバスケをやった記憶があります。
ランチも楽しくなり、ほかの生徒ともめても、
そいつが加勢してくれたり、そいつは本気で自分のためにいてくれた。結局そいつとは、5年間最高の学校生活を遅れました。
いっぱい悪さもしたが、お互い大人になった今でも、
最高のダチです。
あー大変だ―!!また、やりすぎましたね。これは!?
次回はもっとコンパクトにします。
読んでいただいてありがとうございます。
Posted at 2008年12月20日 01時32分37秒
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またまた、久々でーす。今日は、自分の事を(何回かに分けて)
書きまくろうと思いまーす。
親友である、株式会社情熱さんの矢間さんが、ブログで
会社の歴史をつづっていて、「あ、俺も書こう!!」って
思ったのがきっかけ。
矢間さーん、ありがとう!!
今の型無があるのも、自分の人生、28年間で出会った方々、
働かせて頂いた職場、そして、父と母がいたから、、、、
なので、ちょっと、さかのぼって、型無誕生までを
書きたいと思います。
自分は日本で生まれ、14歳でカナダに家族移民をしています。
この移民で宇宙の法則というか、目に見えない力を
すごく痛感した出来事が矢野家に訪れます。
父の夢であったカナダ移民。
許可がおりるまで実に5年以上の月日。
父の夢である、カナダ、バンクーバー。
父には2つの理由がありました。一つは、(息子)自分の教育環境。
そしてもう一つは父の父。自分のおじいちゃんの生活。
カナダは福祉が強いため祖父を引き取っていた
(そのためにサリーマンをやめたのだが、、、、)父は祖父と共に、
カナダを自分たちが住むところと決断したのだ。
しかしなかなか許可が下りず、祖父が寝たきりになり、、、、、
自分が12歳の時、他界してしまったのです。
「間に合わなかった」。
この父の想いがまったくわからず、
ただひたすらに、泣きじゃくっていた葬式。
そして、移住の気持ちが薄れてきた一年後、許可がおります。
ただ半端ない事が、、、許可が下りたのが、
ちょうど祖父の一年目の命日。
奇跡的な出来事。そのまま、父は祖父のお墓へ。
父は祖父のお墓の前で手を合わせ祖父の声を聞いたといいます。
「お前たちだけで、行ってこい」。
父にこの話を聞いた時、正直ぞくぞくしました。
まったくそういった物を信じなかった自分ですが、、、、
何かすごい物を感じた。14の夏、いざカナダへ。夢と希望を
ふくらませて、友達との、涙の別れ。
ちょっと、「俺カナダに行くんだ、へへへ」
みたいな気持ちもありながら。しかし現実はそんな甘くなかった。
いやー、こんなペースで書いてたら、
かなりの長編になりそう、、、、、(笑)
根気よく書いています。
次回をおたのしみにーーーーーー!!
ありがとうございます。
Posted at 2008年12月18日 00時01分36秒
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お久ぶりーです。
ちょっと、お腹の具合が絶好調で
最高のひと時を過ごしてました。
先日、自分が上海にいた時に
住んでいた町に行ってきました。
二人の先輩(日本人)とはずっと連絡をとっていて
あいに行ってきました。
久しぶりに会ってきました。
ちょーうれしくて、最高でした。
しかも、すごいことに、
一緒に働いていた、現地人がまだ
先輩と働いていて、再開!!
「必ず、俺は上海に戻ってくる」
「そして、上海に店を出す」
って片言ながら、約束したパンヤオ。
もちろん、店を出すために戻ったわけではないが
上海に戻る約束は果たせた。
しかも会えたのがうれしい。
彼は本当にいろいろな事を教えてくれた人。
上海に田舎から出てきた、出稼ぎをする
彼みたいな、若い子の生活。
当時の自分には受け入れられなかったことが
山ほどあり、そして自分の人生観を変えた。
そんな彼に会って、「ありがとう」って
言えたこと。本当に本当に感謝。
改めて、自分に誓いました。
「必ずまた上海にもどってきて、店を出す」
やるぞー!!!
Posted at 2008年10月28日 02時35分57秒
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ワン シャン ハオ!!
どーもです。上海から潤です。
今日は昨日、晩御飯で食べた四川料理屋さんでの
写真です。
上海での回転寿司がっ0んさんの社員さんと
行ってきました。
まー驚きの価格なんですよ、ローカルの
ご飯やさんは。。。。飲んで、食って4人で
100元ちょっと、、、
ちょっと、高い日本食に入ると、軽く一人頭
7,8倍ぐらいの値段になります。
やはり現地の人にも好かれるお店にならなきゃと
改めて思う、、、、、
生活基準がバラバラな上海でどう立ち振る舞うかが
出店後のカギになりそうだ。
さて、明日は再度、パソコンとにらめっこ。
あぷっぷ!!全快でいきます。
Posted at 2008年10月22日 00時38分39秒
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ウェイ、ニーハオ!!
今日は、こりっきりで、一日中パソコンに
向き合ってました。
なのでーーーーすみません。写真がーー!!
お昼食べに出た時に撮った、自分が住んでいる
アパートの写真と部屋からの夜景で
おゆるしをーーーー
さて今、全体ミーティングが終わりました。
ノリノリです。
課題がやーーーまほど。。
チャ――ンス!!!
上海に来て、みなさんとはじめての、全体ミーティング。
いーですねー。これからやるぞ!!って、気持が
あらわれてる、熱気!!
やー、お腹すいたーーーので、何かたべよー。
また、中華だと、太るかなー!!!???
でもやめられなーーい!!
さー盛りあがった気持のまま、落ちるまで
パソコンにむきあうぞー(笑)
Posted at 2008年10月19日 01時19分57秒
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