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中国地方の旅 〜3日目〜

こんばんは!

E-ori's5 NAILPRODUCE(イオリズファイブネイルプロデュース)です。









本日は台風一過と申しましょうか風が強い1日でしたね。
本日ご来店頂いた士幌からいらっしゃいましたお客様が、「士幌は電柱が倒れたり大木が倒れて通行止めになっていましたよ」と教えて頂いたのですが…

北海道は広いと申しますか、
帯広は本当に災害が少なくて恵まれている土地と申しますか、
今回大荒れになった道東エリアとして含まれていますが、今日の天気予報なんて時間毎の天気予報には太陽マークが唯一ついていましたからね。

帯広という地形に本当に感謝です。

こちらを読んで下さっております皆様は、大丈夫でしたでしょうか。
この度、災害に遭われました皆さまには、心からお見舞い申し上げます。



ーさて、9月末から最近まで行っていました中国地方の旅のお話をしていきたいと思います。
今回も沢山の方に考えてほしいので長文になりますがお読み頂きたいと思います。


 愧羚饕亙の旅 〜1日目〜』
◆愧羚饕亙の旅 〜2日目〜』

それぞれクリックして下さい。



いよいよ折り返しになった中国地方の旅、広島滞在も9/30が最後となりました。
この日は予め予約をしていた、朝から平和学習のガイドさんに色々ご案内頂こうと、平和記念公園内で待ち合わせました。

私にとっては貴重なお休みなのと、歴史物を訪ねる時はお着物を着たくなるのです。

連日(私にとっては)猛暑のような暑さの広島、予想通りでしたので今回のお着物は、夏着の透けたお着物と夏用の襦袢を着ました。

でも汗をかくとお着物を脱いだ時に紐の跡が痒くなるので毎回それが悩みだったのですが、今回広島でお着物屋さんに行った時に、汗を吸ってくれる肌着を購入できたので、これがかなり重宝しました♪


広島での最後のお着物は、ブルー地にミントグリーンのラインがダイヤのように入っている柄に、半襟は涼やかに白地にワインレッドや茶色の四角い形がプリントされている半襟を入れました。



帯は単位帯のエンジカラーにネイビーブルーのボーダーが入った帯に、赤×白の千鳥格子の帯揚げ、レースのベージュのゴムベルトを帯締として使いました。

帯揚げの結び方、バリエーションがほしいなと思います。



変形銀座結びです。
ポヨンとなるこのふんわり感が好きです❤


今回泊まったホテルから歩いてすぐの所に平和記念公園がありました。

平和大橋から向こうに見える原爆ドームです。

ここから見ても広島って、川がある素敵なところですよね。
これが原子爆弾を投下する条件の1つになるなんて。。。


平和学習ガイドさんとは、無事に資料館前でお会いできました。
何と奇遇にもガイドさんはお父様が沖縄の方で、しかも沖縄の方なら誰でも知っている護佐丸(ごさまる)の末裔らしく、しかも私の実家がある現豊見城市の総地頭を務めた毛氏豊見城殿内の元祖なんだとか!

後で両親に話したら、「毛が立ってきたさぁ〜!」と母は人の呼び寄せる縁を驚いていました(笑)

そんなガイドさんですが、生まれも育ちも広島っ子だという事で、沖縄の血が流れているというところでの親しみやすさと、地元っ子という事で色々聞かせて頂けると期待に胸が膨らみました!



最初は公園内にある慰霊碑を説明しながら見せてくれました。

その中に、無縁仏をお祀りしている原爆供養塔があったのですがその横に、この無縁仏が特定された方のお名前が一覧になって張り出されているものがあるのですが、戦後70年の間、引き取り手が現れる事はなく、記載されたお名前は減る事がないと説明を受けました。

沖縄には小さな瓦屋根のお家が昔の作りのままあるところがあって、その中にぽつんと板で簡素な作りのお仏壇のようなものを作り、その上に御香炉とチャーギと言ってお供えする木を入れた花瓶とお水を入れたコップだけでお位牌はないお家がいくつかあります。
聞くと、一家全滅したのでこのような形で供養されているとか。

広島もそんなお家があるんでしょうね、
ガイドさんは、「見てみると家族かなと思われる同じ苗字の方が多くいらっしゃる」と仰っておりました。

70年経っても…じゃなく、70年後の今も戦争の証は消えないのだと感じました。

私はもし死んだらお墓はいらないかなって思っている方なんです。
「私が死んだら絶対お墓のお守りしてね」と、死んでからお世話をしてもらうくらいなら、お婆ちゃんになって人手がほしい時に手をかけて目をかけてほしいなと思うので(笑)。
お墓に対して依存心はないのですが、ない私が引き取り手がなく70年経った今も個人は特定されているのに待ち人が来ない様子はとても切なくなりました。


公園内ではガイドさんが沢山ある慰霊碑を搔い摘んでご紹介頂いた後、周辺の被爆建物などもご案内頂きました。

後程またご説明しますが、爆弾は広島の原爆ドームに標準を合わせて落下されたそうですが風に流されて実は少し離れたところで炸裂したんだそうです。

皆さま、ご存知でしたか?

私は広島の原爆ドーム上で炸裂したと思っていましたが、違うんです。


こちら、戦中も病院で今もこの病院が立っているのですが、この島病院の頭上で爆発したんだそうです。



写真上でクリックすると大きくなりますので是非ご一読下さい。
この説明書きは病院の横にあります。

爆弾の投下日、幸い院長先生と1名の看護師さんは離れたところへ往診へ行っており難を逃れたそうです。

被爆後はこの後お話します、袋町国民学校の救護所で被爆者の救護活動に従事したそうです。

投下された後、「先生広島が大変なことになっている!」と一報を受け戻ってみると街も病院も無残な姿になっていた、とガイドさんに教えて頂きました。

人命救助の場である病院の真上で原子爆弾が炸裂するなんて、何という悲劇なんだとやるせない気持ちです。。。


次へ行ったのが、先日ご紹介しました本川小学校の次に爆心地から460mの至近距離で被災した袋町小学校へ連れて行って頂きました。

この’袋町小学校平和資料館’は、広島の中心街にあるんです。

知らずにホテルとお買い物街との間を往復した際に前を通っていたので、ガイドさんに連れて行って頂いた時、「こんなところに?!」とびっくりしました。

でもよく考えてみれば、広島の賑わった当時の市内が標的にされたわけですから、ここは街中だから被害は受けてなくて、ここは畑だから被害を受けた、というわけでは当たり前になくて、万遍なく被災し、一帯が焼け野原になっているんですよね。

爆弾から放たれた熱線と熱風は、街を焦土と化し三日三晩燃えたそうですし、ここ一帯が爆弾投下地から徒歩圏内なわけですから。

袋町小学校は当時の校舎の一部を資料館として残されています。
ここも当時では珍しい、鉄筋コンクリートの地下1階・地上3階の建物として造られたために耐える事ができ、原爆投下後は救護所として使われ、その後煤で黒くなった壁にわずかに残ったチョークで家族への安否確認のための伝言版として使われる場所でもあったそうです。

やがて、学校も復旧し校舎が改修されると、「伝言」は、黒板の裏に隠れたり、漆喰で塗り潰されたりして隠されてしまいましたが、資料館として残す時伝言が隠れている事を発見して今は伝言も見られるように展示されています。

伝言には、誰かに宛てて今いる住所などが書いてあったりしているのですが、これらの伝言達はどれくらいの数が宛先に届いたのかなと思いました。

こちらの袋町小学校は前日に訪ねた本川小学校の校舎と違い、明るい雰囲気でしたが、やっぱりここでも写真は撮れませんでした。

その後、アーケードの方へ行き、別の現存し使われている被爆建物を見せて頂きました。


’ANDERSEN’というモダンな建物のパン屋でした。

一時は、被爆地ヒロシマの象徴としてこの建物を残すか、原爆ドームを残すかの議論が交わされた建物だそうです。


元々は帝国銀行広島支店だったこの建物は、爆心地から360mで被爆しています。
天井や壁など大部分が崩壊したそうですが、地下の金庫は無事だったそうです。
銀行として営業を続けた後、1967年(昭和42年)にタカキベーカリーが建物を買い取ってリノベーションし、広島アンデルセンとしてオープンしたそうです。

今ではとても存在感があるおしゃれな建物になっており、地下2階、地上8階建てのショッピングフロアから、レストラン、パーティ会場までを備えています。
2002年(平成14年)に、被爆建物部分の耐震補強および全館改装を実施しているそうですが、2016年1月中旬からまた新たに改装工事に入り、2018年8月オープン予定という事だそうなので、その前に見られてよかったです。

被爆した状態を後世に残すように、傷んだ具合をそのままに、でも補修を時々してあげないとそもそも傷んでいるものを温存するわけですから手がかかって大変でしょうね。

でも、ぜひ被爆建物の1つとして残していってほしいなと思いました。

でも、この建物はお洒落なために、言われないと被爆建物と分らないです。
外壁の傷み具合も、これはこれでお洒落に見えますし。

実際私もどこが被爆して傷んでいるか分かりませんでした。

人々が賑やかに行き交う雑踏の中に被爆したこの建物が現代に馴染んでしまっているので、どれだけの人がこの建物が被爆建物だと分かるのかなと、足を止めることなく過ぎ去っていく人達を前にして、この建物はどれだけ被爆した痛みを訴えかけて、どれだけの人がそれを受け取ってあげられているのかなと、お洒落なだけに少しもの悲しさを感じました。

もう1度広島を訪れた際はぜひお店の中でお食事をしてみたいです。


午前中のガイドプランが終了し、美味しいお昼ご飯が頂ける場所までガイドさんに教えて頂き、私達は一旦お別れしました。



広島は穴子が有名という事で穴子尽くしの定食に、季節限定の栗ご飯の釜飯を頂きました♪

お腹が満たされた後は、平和資料館へ向かいました。



こちら、左後方に原爆ドームがある元安川沿いです。
進行方向に平和資料館があります。

午後になっても平和記念公園内には外国人の方も沢山いらっしゃっていました。



そして、原爆のシンボル、原爆ドームです。

原子爆弾は、南東約160m、高度約600mの位置で炸裂しています。

それにより、中にいた30人余りの人々は全員即死だったそうです。
原爆投下により建物内は熱線による火災で木材で作られた大部分は全焼したそうです。

やはり爆風が上から来ると、横から来るより鉄筋の建物は完全な崩壊は免れるんですね、原爆ドームも爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れる事ができドームの鉄枠と外壁が残り今に至るそうです。

当時の悲惨さを残しながらの修復は本当に大変なご苦労があると思いますが、
ずっとずっと後世に残り続けて核兵器廃絶を訴えてほしいですね。


そして原子爆弾がこの原爆ドームからどれだけ離れていたかですが、

こちらの写真で位置関係を少し説明しているのでクリックで大きくしてご覧下さい。

また併せてこちらもクリックしてご覧頂くと位置関係がより分かりやすいと思います。

上記の写真から右にもう少し進むと…

元安橋に出ます。
歩いてほんの数分です。

この橋の向こう側に先ほどご説明した島病院があるのです。
そこで原子爆弾は炸裂しました。

そして、今回広島へ行って知った事は被爆した建物が今も現役で使われている事です。
こちらも、先ほどご説明したアンデルセンの建物でもありますように、写真右側の’広島市観光案内所(平和記念公園レストハウス)’も現存する被爆建物で最も至近距離で被爆し、今も現役で使われている建物なのです。

今は、観光案内や観光地図、観光パンフレットなどの提供と広島のお土産ものやオリジナルグッズなどを扱う売店を備えています。

私も入りましたが自販機もあり、椅子もありますので休憩している観光客の方が多くいて、当時を思わせる面影は見つけられませんでした。

原爆投下の日、この建物には37名の方が勤務していたそうです。
たまたま地下の倉庫に書類を取りに行かれたお1人は、いつもはすぐに見つかる書類がこの日はいつもの場所になく探している時に爆弾が炸裂し、奇跡的に生き残ったそうです。

残りの方は原爆炸裂に伴う放射線と熱線・爆風のため、29名が即死し、即死を免れ建物を脱出できた8名はその後の消息は不明らしく、脱出後に急性放射線障害などで死亡したと推定されているそうです。

唯一生き残った方の証言が詳しく書いてある記事がありますので、こちらをクリックして併せてご覧下さい。



館内では、お仕事で接客中の方、思い思いに休まれている方、それを見ている私…
その様子を見ていて、
「あぁ、あの時もこんな風に何気ない日常だったんだろうなぁ。
私は今、原爆がさく裂した場所からすぐの所にいるから、もし当時ここにいたら私は骨さえ残せず死ぬんだろうな。
こんな何気ない日常を、何が起こったのか理解できないまま自分の姿も残せないで死んでいくって…」と今の平和からあまりにも想像できない情景に思い浮かぶ言葉もありませんでした。

でも、そういう事なんですよね、
まさかここに想像も絶する恐ろしい原子爆弾が落ちるなんて、当時誰が思ったでしょうか。

70年は経ちましても場所は同じで、被爆し現存する建物もあるので、ここを訪れた際はぜひ、当時に想いを馳せて、意味が分からないまま死んでいった人々の想いを想像してみて頂ければと思います。

もし原爆投下時、あなたがここにいたら、あなたは生き残れたと思いますか?


資料館は今、改築工事中と展示品を貸し出し中で展示物の数は少なかったそうですが、関係ありませんね、原爆の恐ろしさを伝えるには1点1点に強烈なインパクトがありますから十分でした。

今回で訪れるのは多分3回目かと思いますが、少しずつアップデートされる知識を持って訪れるので、毎回新鮮な気持ちで拝観できます。


資料館を見終わって原爆死没者慰霊碑から原爆ドームを臨んでいます。

沖縄の摩文仁にある国立沖縄戦没者墓苑は、沖縄戦で亡くなられた住民や軍人などのお遺骨が納められているので、私はてっきりこの平和公園内にもお遺骨を収集する場所があるのかと思っていたのですが、それは原爆供養塔のみでお遺骨はそれぞれご家族の元へ引き取られているので、慰霊碑にはお名前を書いた和紙が収められているんだそうです。

そっか、沖縄戦はそもそも軍民も入り混じり過ぎて、前線が移動する毎に人々も移動して、一家全滅したところも多くあるほどごちゃごちゃしてしまったけれど、広島は引き取り手がいらっしゃたんですよね、
同じ戦争でも沖縄戦とは本当に違うんだと感じました。

またガイドさんから教えて頂いたのですが、この原爆死没者慰霊碑には7名、広島の原爆で亡くなっていない方のお名前が収められているんだそうです。

何でだか分りますか?!

正解は、広島の方が長崎の原子爆弾が投下された時に居合わせてしまい亡くなったので、同じ原子爆弾で亡くなられたからという事で慰霊碑にお名前を連ねているそうです。

悲しい運命だわ、とほとほと思いました。
広島にいても被害に遭っていたかもしれず、なわけですよね。

奇跡的に助かった人、上記のように広島の方がわざわざ長崎で原子爆弾に遭い亡くなる人…
みんな同じはずなのに、運命を分けるボーダーラインって一体何なんだろうと考えてしまいます。



15時過ぎ、千羽鶴の慰霊碑の前でセレモニーがあるとガイドさんに誘って頂いたので、原爆の子の像の前に来ました。

ここは以前来た時は確か無かった、折り鶴を収めるボックスができていました。
ガイドさん曰く、心無い方が全国から寄せられる同じ年ごろの子供達が折りあげた祈りが込められた折り鶴を燃す人がいたので、今はガードするためにボックスを立てて中に収められるようになったんだとか。

燃やす人って、もう、何なんでしょうね、
全く理解できないからどうしてそんな事をするのか聞いてみたい。

この原爆の像の前では、修学旅行で訪れた学生達が色んなセレモニーをしていました。
聞いた事がない素敵な歌を歌っている学校もありましたが、あれは自分たちで作詞作曲したのかなぁ。
心に沁み入る歌でした。

その周りで外国人も日本人も沢山集まって聞いていましたよ。

ここを訪れた学生の皆さんが、心のどこかに戦争と平和について考える事をずっと留めてくれたらいいな、と思いました。


その後、ガイドさんと再会し沖縄の共通点もありますので少しお茶をしながら色々なお話させて頂き、お友達になりました!
「またお会いしましょう!」とお約束して、当初これで広島を離れる予定だったのですがガイドさんからご案内頂いた、大好きな神楽を広島最後の夜に締め括りました。


毎週水曜日にしているという広島の夜神楽は、広島県民文化センターで行われました。

上中調子神楽団という若い方々で構成されている神楽を見ました。





とても面白かったです。

数年前に宮崎の高千穂神社で夜神楽を見てから大好きになり、たまたま九州にいた時、各集落ごとに氏神様を神楽宿と呼ばれる民家や公民館にお招きする場に居合わせた事があります。
夜を徹して三十三番の神楽を一晩かけて奉納する、昔から継がれてきた厳かな神事はすぐに好きになりました♪

その神楽が広島でも見る事ができて嬉しかったです。

神事として奉納する夜神楽とは違い、広島の神楽は楽しんで見てもらうというテイストでした。

広島へ行った際、神楽に興味がありましたら、ぜひ行ってみて下さい。
詳細はこちらをクリックして下さい。




広島最後の夜、広島神楽の横断幕と。

神楽が終わったのは21時を過ぎていました。
ホテルに預けていた、でかくて重くなった荷物をピックアップしてこの後2時間以上かけて次の地、島根へ移動しました。


広島では今年戦後70年の節目として、戦争跡地を訪ねようと決めていました。
私は沖縄の人間ですので、人類史上類を見ない民間人が巻き込まれた激しい地上戦と称される沖縄戦が、私のルーツを辿った時どうしても避けられない事から、いつからか”戦争と平和”の均衡を考えるようになりました。

今、全てがそれなりに楽しく暮らしていけるのは平和があるからこそ、なんて当たり前の事には特に人は気付かないんですね。

今回の安保法案で沢山の方が抗議活動していましたよね。
選挙の投票率が芳しくないといわれているのに、政治に関心がなさそうな若い方達も、今あるこの平和が脅かさると危機を感じ、自分達の思考を訴えていましたよね。

でも、決まりかけてから行動するのはやっぱり少し遅いんですよ。
気付きはいつからでも大切だと思うのですが、物事が決まり進んでいくには初めの部分から考えて参加しなきゃいけないと思うのです。

この平和も当たり前ではないんですね、平和でいる事の努力と知恵と行動の上に成り立っているだけなのだと思います。

日本はつい70年前に、惨くて歴史に残る沖縄戦と、唯一の被爆を受けた場所が2つもある国ですので、私達はこれからもずっと、「この平和を続けていくために」考えなければいけないと思うのです。

未来を担うお子さん達に真実をしっかり伝えていき、平和でいるためにどうするべきかを考えてもらうように私達大人は沢山知って伝えていかなければいけないのではないかと思います。

平和は、当たり前にあるべきだけど当たり前じゃないという事、
その平和を願い祖国日本を命がけで守った私達の先輩方が若くして散っていかざるを得なかった背景には一体何があったのか。

今年は70年で夏には沢山の番組が戦争を特集していましたが、一過性の事とならないように、常に心のどこかに留めていければいいなぁと思いました。



〜To be continued〜

Posted at 2015年10月10日 00時19分17秒

 
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