葛飾区柴又にあるプロテスタント教会です。日本ホーリネス教団という団体に属しています。
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日本ホーリネス教団 柴又キリスト教会

日本ホーリネス教団 柴又キリスト教会
〒125-0052
東京都葛飾区柴又6-12-17

TEL  03-3657-2301
FAX  03-3672-2910


テレフォン・メッセージ「いのちのダイヤル」

TEL 03-3672-2911 (みんなにふくいん)



◆私たちの教会は聖書信仰に立つ福音的なプロテスタント教会です。
詳しい教義等については、『私たちの教団(JHC)』をご覧下さい。◆


<<アクセス>>
ゝ成線高砂駅より金町線で1駅目 柴又駅下車 徒歩3分
京成金町駅より1駅目 柴又駅下車 徒歩3分
JR(千代田線)金町駅下車、改札を出て右へ、ガードを出て京成バス1番乗り場より小岩行にて
 柴又6丁目下車、戻るようにして徒歩1分。または△諒法で。
に盟軅新柴又駅下車 徒歩10分
ィ複卅輊霎小岩駅下車、改札を出て左へ、階段下左側の交番前の京成バスで金町行または
 戸ケ崎操車場行にて柴又6丁目下車、進行方向に進み、最初の信号を右横断して直進、
 バス停より1.5分。
 

31th チャペル・コンサートのご案内

 

Posted at 2017年04月26日 15時22分48秒

2017年4月−6月の予定

2017年4月16日(日)AM9:00,10:15 イースター聖餐式主日礼拝
*午後、教会墓地での墓前礼拝を行います。

2017年4月23日(日)AM10:15 主日特別合同礼拝
                    (講師:榊原寛牧師)


2017年4月30日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝

2017年5月 7日(日)AM9:0010:15 主日礼拝

2017年5月14日(日)10:15 主日特別合同礼拝
                     (講師:森下辰衛氏)

*森下氏は三浦綾子読書会を主宰している方です。

2017年5月21日(日)AM9:00,11:00 主日礼拝
*第2礼拝(11:00)は、水元公園にての野外礼拝です。雨天の場合は教会にて10:15から行います。
                 
2017年5月28日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝

2017年6月 4日(日)AM9:00,10:15 主日礼拝

2017年6月11日(日)AM9:00,10:15 主日礼拝
*午後、老人ホームに花の日訪問を行います。

2017年6月18日(日)10:15 ファミリーデー主日合同礼拝
*14:00よりチャペルコンサート(ギター:長祐樹氏)を行います。

2017年6月25日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝
*第2礼拝ではギデオン教会の方の証詞があります。


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★書道会
  2017年4月 6,13,27日
  2017年5月11,18,25日
  2017年6月 1, 8,22日
                  (木)PM1:30
                      
★市川地区家庭集会(山下・澤宅)
  2017年4月15,5月20日,6月17日(土)AM10:00 
                              
 

きょう共にパラダイスに(ルカ23:39-43)

きょう共にパラダイスに(ルカ23:39-43)

イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(43)

 イエス・キリストは十字架の上で7つの言葉を発せられておられますが、ただ今共に耳にいたしました記事もその一つであります。共に十字架につけられた罪人との会話が出てまいります。この部分を「縮小された小規模の福音書」とある注解書は語っています。つまり、福音とは何かと言うことがこのひとりの罪人と主イエスとのやり取りの中で明らかにされているからであります。
 ここで主イエスは「きょう」と言われています。明日ではないのです。明後日でもないのです。きょうなのです。主イエスの与えられる救いとはそのようなものであるということが、この主イエスのお言葉の中に明らかにされているのであります。そのことをしっかりと受け止めていきたいのであります。
 主イエスと一緒に両側につけられた二人の人、彼らは十字架の刑を受けるに相当する罪を犯してきたことは明らかであります。そのうちのひとりは、主イエスを十字架の下でののしりあざける人たちと一緒になって、主イエスをあざけりました。激しい痛みの中で、ある意味では自分の人生をのろい、また自分をこのような苦しみに合わせている人たちをののしりたいのが、人の常であろうかと思います。しかし、このひとりの人はその怒りを主イエスにぶつけていると言っても良いのではないでしょうか。主イエスはこの人の言葉に対して沈黙しておられます。この人を主は無視されたのでしょうか。そうではありません。それは既に主イエスが「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか解からずにいるのです」との祈りにおいて答えておられると言ってもよいのです。しかし、この人にはその思いが届いていないと言えるのだと思います。
 その主イエスをののしる言葉を聞いていたもう一人の人が口を開きました。まさに主イエスを間においてこの言葉が語られたのです。お前の言っている事はおかしい、と言うのです。主イエスをののしることは全く当を得ていない、と言うのです。自分たちにとっては当然の報いとしてのこの十字架刑である、と語っているのです。それは自省の言葉ともなっているわけであります。自分の罪を深く悔いている言葉であるわけです。主イエスはこの人の言葉をしっかりと受け止められたことは明らかであります。
 そして、彼は主イエスに語りかけます。「あなたが御国の権威を持ってお出でになる時には、わたしを思い出してください」と。ここには既に主イエスは救い主、メシアであるとの信仰の告白がなされています。「あなたが御国の権威を持ってお出でになる時」とはそのことを言い表しています。この世界を治める方はあなたです。その時が必ず来ます。その時、私のことを思い出してください。わたしのような者がいたということを思い出してください、と。彼は救ってくださいとは一言も語っていません。彼は自分の罪を十分受け止めていました。受け止めていればこそ、わたしを救ってください、とは言えなかったに相違ないのです。ですから、思い出してください、としか言えなかったのです。そこに、既に悔い改めがおこっていると言うことができるのです。自分の罪を認める、それなくして、本当の意味での主イエスへの信仰の告白は起こらないといってもよいのであります。なぜなら、主イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださったからであります。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と主イエスは語られています。更に主イエスは「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られています(Mar2:17)。 ここで罪人と語られる時、この十字架にかけられるような犯罪人を直接指している事ではありません。そうであったら、多くの人たちは関係のないことになります。聖書が語る罪とは、霊的な罪であります。神の恵みを拒絶し、自分は正しい人間、自分は何でも出来ると考える生き方です。しかし、私たちの心の思いを見つめて欲しいのです。そこに、ねたみや憎しみ、そねみ、怒り、党派心といった人間関係を壊してしまうような思いはないでしょうか。パウロと言う人はそれらをガラテヤ5章で「肉の思い」と言っています。また、ヘブル人への手紙では「苦い根」と語られています。それがいろんな問題を起こすのです。また、自由を失わせているのです。
 この人は自分の本当の姿を認め、ただ主イエスのあわれみを求めました。「わたしを思い出してください」と。それだけでわたしは満足なのです、と言うことなのでしょう。
 この時、主イエスはこの人に語り掛けられました。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。なんと言う慰めに満ちた言葉でしょうか。驚くべきお言葉でしょうか。
 ここで主イエスが語られた「パラダイス」という言葉ですが、新約聖書に3回しか出てこないのです。一つは今日の部分です。2つ目はパウロが第3の天に引き上げられる経験をした時に用いています。2コリント12:4です。「パラダイスに引き上げられ」たと語っています。3つ目は黙示録2:7です。エペソの教会にあてて書き送られた手紙の一節で「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と出てまいります。この「パラダイス」と言う言葉は、当初は王の庭園を意味する言葉でありました。そこは高い塀で囲まれており、誰でもが入ることが出来ないところであったのです。中が見えないだけに、外にいる人たちは色々と想像をめぐらせていたことだと思います。それは楽園のようなものと考えられたようです。そのことからこの言葉は、ギリシャ語で旧約聖書(LXX)を翻訳した時に、このパラダイスと言う言葉を創世記の初めに出てまいりますエデンの園に当てはめたのであります。また、パウロは2コリント12:2で「第3の天に引き上げられた」と言うことを語っていますが、ある英語の訳では「楽園にまで引き上げられて」という言葉が説明のように入れられている(NRSV)のであります。そして、新共同訳はこの「パラダイス」を「楽園」と訳しています。
 主イエスがこの言葉を用いられることによって、あなたはきょう、あのアダムとエバが罪を犯す前にいたエデンの園、神と共に生きるところ、そこにわたしと一緒にいる、と約束されたのであります。これは何と計り知れない恵みへの招きでしょうか。もう少しで黙示録が礼拝で読み終わるわけでありますが、そこに記された神の都の姿、輝かしい栄光をヨハネは幻を通して知らされたわけでありますが、そこに主イエスはおられたのです。しかし、私たちをそこに招きこむことのために、それは私たちの罪の赦し抜きには考えられないことであるわけで、その罪の赦しのための十字架にかかられることのために、私たちの世界に来てくださったのであります。主イエスは私たち人間の惨めさ以下になってくださって、罪人に徹してくださって、十字架にかかられたのです。この十字架につけられている二人の罪人と同じになられたのです。しかし、そこで終わりではないのです。私たちと同じ罪人として十字架で死なれて後、蘇られて、パラダイスにお帰りになられる。そのパラダイスにこのひとりの罪人、自らが当然の報いを受けていると告白する罪人を招かれたのであります。この人がこの招きを受けた。しかし彼はこのことのために何の善行もすることが出来なかったのです。また主イエスのために何らの証詞をすることも出来なかったのです。十字架刑に処せられるような重罪人なのです。このことを私たちは深く心に留めなければなりません。まさしく神の目から見るならば、私たちもまた何をしているのかわからない、哀れな存在だと言うことなのです。そこに立つ時、私たちもまた、招かれているパラダイスが近くなると言っても良いのです。
 よく教会は罪人の集まりと言います。でもどうでしょう。本当にそのように思っているでしょうか。教会の中にあっても比較が起こり、審きがおこらないでしょうか。主イエスへの不満が溢れることはないでしょうか。私たちもただただ主イエスの招きの中に生かされているのであり、この礼拝におることも、まさにパラダイスへの招きの中におると言うことを覚えたいのです。自分だけではないのです。みんながそうなのです。主イエスの十字架の前に立たせられたなら、ただ、わたしを思い出してください、としか言うことができない者なのです。
 この罪人は名前も何もわかりません。福音のために何の働きも出来ませんでした。しかし、彼はこの素晴らしいかけがえのないメッセージ「今日わたしと共にパラダイスにいる」との確かな約束を聞いた者として、聖書の中に残されたのです。そして証詞し続けられているのです。あの主イエスの頭に高価なナルドの香油を注いだ女の人と同じように、この人は世界中で証詞されているのです。ただただ主イエスの恵みの中に招きこまれた人として、そして誰でも主イエスを信じ見上げる者に同じ恵み、永遠の命、パラダイスに主と共にいることができる者とされる、その恵みがあるということを証詞する者として、光を放っているのです。そして、それは私たちでもあるのです。
 ここに私たちの喜びがあり、平安があるのです。この招きに招かれていることを心から感謝して、新たな思いを持って応えていきたいものです。
 

Posted at 2017年04月11日 11時17分45秒  /  コメント( 0 )

2016秋季特別集会

 

Posted at 2016年10月12日 16時39分10秒