葛飾区柴又にあるプロテスタント教会です。日本ホーリネス教団という団体に属しています。
メインメニュー
WHAT'S NEW

日本ホーリネス教団 柴又キリスト教会

日本ホーリネス教団 柴又キリスト教会
〒125-0052
東京都葛飾区柴又6-12-17

TEL  03-3657-2301
FAX  03-3672-2910


テレフォン・メッセージ「いのちのダイヤル」

TEL 03-3672-2911 (みんなにふくいん)



◆私たちの教会は聖書信仰に立つ福音的なプロテスタント教会です。
詳しい教義等については、『私たちの教団(JHC)』をご覧下さい。◆


<<アクセス>>
ゝ成線高砂駅より金町線で1駅目 柴又駅下車 徒歩3分
京成金町駅より1駅目 柴又駅下車 徒歩3分
JR(千代田線)金町駅下車、改札を出て右へ、ガードを出て京成バス1番乗り場より小岩行にて
 柴又6丁目下車、戻るようにして徒歩1分。または△諒法で。
に盟軅新柴又駅下車 徒歩10分
ィ複卅輊霎小岩駅下車、改札を出て左へ、階段下左側の交番前の京成バスで金町行または
 戸ケ崎操車場行にて柴又6丁目下車、進行方向に進み、最初の信号を右横断して直進、
 バス停より1.5分。
 

2017年10月−11月の予定

2017年 9月24日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝
*午後、SS主催のピクニックを行います。

2017年10月 1日(日)AM9:00,10:15 主日礼拝
*第2礼拝は、召天者追悼記念礼拝となります。

2017年10月 8日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝

2017年10月15日(日)AM9:0010:15 主日(伝道)礼拝

2017年10月22日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝
*平野神学生がメッセージします。

2017年10月29日(日)10:15 主日特別伝道合同礼拝
            (講師:岡田邦夫牧師)


2017年11月 5日(日)AM9:00,11:00 主日聖餐式礼拝

                 
2017年11月12日(日)AM10:15 主日特別礼拝
               (講師:下瀬幸子牧師)


2017年11月19日(日)AM9:00,10:15 主日礼拝
*第2礼拝において幼児児童祝福式をいたします。


2017年11月26日(日)AM9:00,10:15 主日(伝道)礼拝

======================================================================
★書道会

  2017年10月 5,12,26日
  2017年11月 2, 9,30日
                  (木)PM1:30
                      
★市川地区家庭集会(山下・澤宅)

  2017年10月21,11月18日(土)AM10:00
0 

                              
 

きょう共にパラダイスに(ルカ23:39-43)

きょう共にパラダイスに(ルカ23:39-43)

イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(43)

 イエス・キリストは十字架の上で7つの言葉を発せられておられますが、ただ今共に耳にいたしました記事もその一つであります。共に十字架につけられた罪人との会話が出てまいります。この部分を「縮小された小規模の福音書」とある注解書は語っています。つまり、福音とは何かと言うことがこのひとりの罪人と主イエスとのやり取りの中で明らかにされているからであります。
 ここで主イエスは「きょう」と言われています。明日ではないのです。明後日でもないのです。きょうなのです。主イエスの与えられる救いとはそのようなものであるということが、この主イエスのお言葉の中に明らかにされているのであります。そのことをしっかりと受け止めていきたいのであります。
 主イエスと一緒に両側につけられた二人の人、彼らは十字架の刑を受けるに相当する罪を犯してきたことは明らかであります。そのうちのひとりは、主イエスを十字架の下でののしりあざける人たちと一緒になって、主イエスをあざけりました。激しい痛みの中で、ある意味では自分の人生をのろい、また自分をこのような苦しみに合わせている人たちをののしりたいのが、人の常であろうかと思います。しかし、このひとりの人はその怒りを主イエスにぶつけていると言っても良いのではないでしょうか。主イエスはこの人の言葉に対して沈黙しておられます。この人を主は無視されたのでしょうか。そうではありません。それは既に主イエスが「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか解からずにいるのです」との祈りにおいて答えておられると言ってもよいのです。しかし、この人にはその思いが届いていないと言えるのだと思います。
 その主イエスをののしる言葉を聞いていたもう一人の人が口を開きました。まさに主イエスを間においてこの言葉が語られたのです。お前の言っている事はおかしい、と言うのです。主イエスをののしることは全く当を得ていない、と言うのです。自分たちにとっては当然の報いとしてのこの十字架刑である、と語っているのです。それは自省の言葉ともなっているわけであります。自分の罪を深く悔いている言葉であるわけです。主イエスはこの人の言葉をしっかりと受け止められたことは明らかであります。
 そして、彼は主イエスに語りかけます。「あなたが御国の権威を持ってお出でになる時には、わたしを思い出してください」と。ここには既に主イエスは救い主、メシアであるとの信仰の告白がなされています。「あなたが御国の権威を持ってお出でになる時」とはそのことを言い表しています。この世界を治める方はあなたです。その時が必ず来ます。その時、私のことを思い出してください。わたしのような者がいたということを思い出してください、と。彼は救ってくださいとは一言も語っていません。彼は自分の罪を十分受け止めていました。受け止めていればこそ、わたしを救ってください、とは言えなかったに相違ないのです。ですから、思い出してください、としか言えなかったのです。そこに、既に悔い改めがおこっていると言うことができるのです。自分の罪を認める、それなくして、本当の意味での主イエスへの信仰の告白は起こらないといってもよいのであります。なぜなら、主イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださったからであります。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と主イエスは語られています。更に主イエスは「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られています(Mar2:17)。 ここで罪人と語られる時、この十字架にかけられるような犯罪人を直接指している事ではありません。そうであったら、多くの人たちは関係のないことになります。聖書が語る罪とは、霊的な罪であります。神の恵みを拒絶し、自分は正しい人間、自分は何でも出来ると考える生き方です。しかし、私たちの心の思いを見つめて欲しいのです。そこに、ねたみや憎しみ、そねみ、怒り、党派心といった人間関係を壊してしまうような思いはないでしょうか。パウロと言う人はそれらをガラテヤ5章で「肉の思い」と言っています。また、ヘブル人への手紙では「苦い根」と語られています。それがいろんな問題を起こすのです。また、自由を失わせているのです。
 この人は自分の本当の姿を認め、ただ主イエスのあわれみを求めました。「わたしを思い出してください」と。それだけでわたしは満足なのです、と言うことなのでしょう。
 この時、主イエスはこの人に語り掛けられました。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と。なんと言う慰めに満ちた言葉でしょうか。驚くべきお言葉でしょうか。
 ここで主イエスが語られた「パラダイス」という言葉ですが、新約聖書に3回しか出てこないのです。一つは今日の部分です。2つ目はパウロが第3の天に引き上げられる経験をした時に用いています。2コリント12:4です。「パラダイスに引き上げられ」たと語っています。3つ目は黙示録2:7です。エペソの教会にあてて書き送られた手紙の一節で「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と出てまいります。この「パラダイス」と言う言葉は、当初は王の庭園を意味する言葉でありました。そこは高い塀で囲まれており、誰でもが入ることが出来ないところであったのです。中が見えないだけに、外にいる人たちは色々と想像をめぐらせていたことだと思います。それは楽園のようなものと考えられたようです。そのことからこの言葉は、ギリシャ語で旧約聖書(LXX)を翻訳した時に、このパラダイスと言う言葉を創世記の初めに出てまいりますエデンの園に当てはめたのであります。また、パウロは2コリント12:2で「第3の天に引き上げられた」と言うことを語っていますが、ある英語の訳では「楽園にまで引き上げられて」という言葉が説明のように入れられている(NRSV)のであります。そして、新共同訳はこの「パラダイス」を「楽園」と訳しています。
 主イエスがこの言葉を用いられることによって、あなたはきょう、あのアダムとエバが罪を犯す前にいたエデンの園、神と共に生きるところ、そこにわたしと一緒にいる、と約束されたのであります。これは何と計り知れない恵みへの招きでしょうか。もう少しで黙示録が礼拝で読み終わるわけでありますが、そこに記された神の都の姿、輝かしい栄光をヨハネは幻を通して知らされたわけでありますが、そこに主イエスはおられたのです。しかし、私たちをそこに招きこむことのために、それは私たちの罪の赦し抜きには考えられないことであるわけで、その罪の赦しのための十字架にかかられることのために、私たちの世界に来てくださったのであります。主イエスは私たち人間の惨めさ以下になってくださって、罪人に徹してくださって、十字架にかかられたのです。この十字架につけられている二人の罪人と同じになられたのです。しかし、そこで終わりではないのです。私たちと同じ罪人として十字架で死なれて後、蘇られて、パラダイスにお帰りになられる。そのパラダイスにこのひとりの罪人、自らが当然の報いを受けていると告白する罪人を招かれたのであります。この人がこの招きを受けた。しかし彼はこのことのために何の善行もすることが出来なかったのです。また主イエスのために何らの証詞をすることも出来なかったのです。十字架刑に処せられるような重罪人なのです。このことを私たちは深く心に留めなければなりません。まさしく神の目から見るならば、私たちもまた何をしているのかわからない、哀れな存在だと言うことなのです。そこに立つ時、私たちもまた、招かれているパラダイスが近くなると言っても良いのです。
 よく教会は罪人の集まりと言います。でもどうでしょう。本当にそのように思っているでしょうか。教会の中にあっても比較が起こり、審きがおこらないでしょうか。主イエスへの不満が溢れることはないでしょうか。私たちもただただ主イエスの招きの中に生かされているのであり、この礼拝におることも、まさにパラダイスへの招きの中におると言うことを覚えたいのです。自分だけではないのです。みんながそうなのです。主イエスの十字架の前に立たせられたなら、ただ、わたしを思い出してください、としか言うことができない者なのです。
 この罪人は名前も何もわかりません。福音のために何の働きも出来ませんでした。しかし、彼はこの素晴らしいかけがえのないメッセージ「今日わたしと共にパラダイスにいる」との確かな約束を聞いた者として、聖書の中に残されたのです。そして証詞し続けられているのです。あの主イエスの頭に高価なナルドの香油を注いだ女の人と同じように、この人は世界中で証詞されているのです。ただただ主イエスの恵みの中に招きこまれた人として、そして誰でも主イエスを信じ見上げる者に同じ恵み、永遠の命、パラダイスに主と共にいることができる者とされる、その恵みがあるということを証詞する者として、光を放っているのです。そして、それは私たちでもあるのです。
 ここに私たちの喜びがあり、平安があるのです。この招きに招かれていることを心から感謝して、新たな思いを持って応えていきたいものです。
 

Posted at 2017年04月11日 11時17分45秒  /  コメント( 0 )

確かな宝を持つ者(2コリント4:7)

確かな宝を持つ者(2コリント4:7)

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(2コリント4:7)

 2014年が始まりました。毎年のように言葉にすることでありますが、この年どのようなことを決心しておられるでしょうか? それを少しでも実現するために、ぜひともチャレンジしてください。余り背伸びしすぎて、すぐに挫折してしまうようなことではなく、達成感を持てるようなものをひとつはなさるといいのではないでしょうか。そうでありませんと、いつも挫折感ばかりが残って、惨めになってしまいかねないからであります。
 
 キリスト教会の最初の世界宣教師となったパウロという人がおりますが、この人の書いた手紙が新約聖書に13残されています。そのひとつがきょう読んだコリント人への第2の手紙です。コリントと言いますのはギリシャの南に位置しており、当時はギリシャ半島の交通の要のような役割を持っていました。ですから、陸路による交易や海路による交易が盛んで、経済的にもとても繁栄をしていたのです。それと共に風紀が大変乱れていたのです。
 パウロは3回に亘る伝道旅行をしておりますが、その2回目の時に1年半の間このコリントで伝道をし、信じる人たちが起こされて、コリントの教会が生まれたのです。しかし、問題も多く抱えていた教会で、そのためにパウロはこのコリントの教会がキリストの教会としてふさわしく建てあげられることのために大変苦労したのです。そのために記されたのが、このコリント人への手紙なのです。
 新約聖書には2つの手紙が残されているわけですが、その外にも書いているのではないか、と考えられています。
 
 パウロはこのところで、私達は「土の器」である、と語っております。それは弱い存在、もろい存在、あるいは粗末な存在だ、ということを示しています。旧約聖書の最初のところで、神様が天地を創造されたことが記されています。この自然界がすべて神様の聖言によって造りだされた、と語っています。そして最後の最後に、神様はその手で土の塵を集めて人間の姿に形づくられ、その鼻から神様の息を吹き込まれて、人間を生きるものとしてくださった、と告げております。その事は、この自然界にあるものと人間とは全く異なる存在だ、ということなのです。それは神様と霊的交わりを持つものとされている、ということなのです。しかし、土の塵から作られたということによって、私たち人間はもろく、はかない存在であることが明らかにされているのです。
 パウロという人は、その手紙を読んでまいりますと解るのですが、とても大変な病いを抱えていたのです。彼はその病いの癒しを切に祈り求めたのです。しかし、その祈りは聞き届けられませんでした。ただ神様から違った答えをいただいたのです。ひとつはその事を通して、傲慢になる危険から守られるためでした。弱さや苦しみを経験することで、そのような人の事をおもんぱかる心を持つことが出来るというのです。今ひとつは、その弱さの中にこそ主の恵みが溢れていることを知るからだ、というのです。つまり、弱さを通して、主を見上げ、主を求めることになる、その事によって、主の恵みを受けることができる、というものでした。
 私たちの社会は強さを要求いたします。また強いものにあこがれます。強くなりたい、強くなろうと求めるのです。そして時には強そうにも振舞ったりしますし、強かった時代を懐かしんだりもします。教育もその事を目指すところがないわけではありません。
 この当時のギリシャ社会も同様であったのです。ギリシャはオリンピック発祥の地はです。人間の力がもてはやされたのです。強いこと、速いことがすばらしいことと考えられたのです。そのギリシャの人たちの持っている価値観に対して、パウロは弱さやもろさをここで強調したのです。
 パウロは自分の弱さを通して、自分は土の器のような者であるけれども、自分はその中に宝を持っているのだ、と語ったのです。これはやせ我慢でもなんでもないのです。パウロを支え、生かしていた原動力であったのです。
 その宝とは一体なんでしょうか。それは主イエスを通して明らかにされた福音、ということなのです。この福音には「計り知れない力」がある、と語っています。想像できない力がある、ということです。同じパウロが書いたローマ人への手紙というのがありますが、その1:16で「すべて信じる者に、救いを得させる神の力である」と語っています。それはダイナマイトのように罪の力を根底から吹き飛ばすような力がある、ということなのです。
 正月早々罪の話しか、と思われる方があるかもしれません。福音とは私たちの罪の問題といつも関わっているのです。罪とは何か法に背くことをしている、ということではありません。それらと無関係ということではないのですが、一番の問題はこの天地を造られた神の存在を否定し、神様が求めておられる愛と許しに生きることはばかばかしいこと、自分さえよければいい、自分の家族が、自分の会社がよければいい、と考えて生きる姿なのです。
 このような罪の根底にあるものを吹き飛ばす力が福音にあるのです。それは主イエスの十字架の死と復活に現れています。この主イエスを受け入れていく時に、私たちは罪の力から解放されて、愛と許しに喜んで生きていく者とされるのです。
 まさに自分の中にあった「計り知れない罪」から解放されて、「計り知れない神の力」を持つ者とされるのです。それが主イエスを信じるということなのです。それはなんという幸いな存在なのでしょうか。ただ信じるだけで、この恵みを持つ者とされるのです。
 
 私たちは一体なにを自分の内に持っているのでしょうか。それは自分で獲得したものでしょうか。それとも与えられたものでしょうか。努力して獲得したものであるならば、それは自分を誇るものとすることでしょう。しかし、与えられたものであるとするならば、それは恵みとして受け取るのです。そこには感謝が溢れてくるのです。
 与えられるためには、自分の弱さを知り、その弱さを認め、主イエスの前に謙遜になることです。主イエスはその人に計り知れない力を与えてくださいます。
 この年、その歩みの中で、自分の弱さを痛感させられることがあるかもしれません。自分の足りなさや惨めさに愕然とすることがあるかもしれません。そのような自分を悲しむのではなく、その時にこそ、わたしの内に宝が与えられている、ということを思い起こさせたいただき、その事を体験させていただきたいものです。
 

Posted at 2015年12月07日 13時59分24秒

東日本大震災

<< お祈りいたします >>


2011.3/11(金)M9.0という大地震とそれに伴

う津波による大災害が東日本を襲いました。

復旧・復興が叫ばれながらも、なかなか進展しない

状況にあります。歯がゆい思いをしつつおります。

被災者の皆様方の上に、主イエス・キリストの慰めと

希望が与えられるように、切にお祈りいたします。

2015.9.10.−11.
集中豪雨により河川が決壊し、大きな被害が茨城県

常総市や宮城県等に出ました。

被災者の方々に主の慰めをお祈りいたします。

また、一日も早い復興をお祈りいたします。
 

Posted at 2015年09月13日 16時42分57秒